祈りの家族への手紙:2008-02


 親愛なる祈りの家族の皆様。

 信仰がなければ人生においてどんなにすばらしい業績を残しても、また、価値あると言われる多くの物を持ったとしても、最後には全てを手放さなければなりません。自分で獲得し所有していると思っていても実は全て神が与えたものであり、ただ、しばらくのあいだ預かって管理しているだけなのです。神が能力を与え、チャンスを与えてくださって得たものばかりだからです。けれども、信仰によって神とつながっているなら、私たちが行なうこと全てが神の意志を反映して意味のあることになってきます。神は私たちの内にその信仰さえも備えてくださいます。神を信じる心もまた神が与えてくださるのです。

 あなたも私も神によって創造された神の自信作です。偶然この世に生まれ、短い間一生懸命生きて、やがて死んで跡形もなく消えて行くだけの存在ではありません。神が目的を持って造られ生かしておられるのです。その目的とは、創造主としっかりとした交わりを持って生きることです。信仰によって神を知り、礼拝と祈りによって神と語り合うのです。そうすれば、これから始まる神との永遠の交わりを可能にする信仰が私たちの内に育ち、その関係がいつまでも続くのです。その謙虚な心があれば、今どんなことをしていてもその努力は決して無駄にはなりません。

 ただ「神を信じる信仰」と言うだけでは、魂が素直でない現代人にとってはそれは簡単なことではなくなってしまいました。では私たちはどのように信仰を持てばよいのでしょうか。

 悲しい事件に巻き込まれて無残にわが子を失った母親が「もう何もかも信じられなくなった」と泣き崩れる姿をテレビのニュースで見ました。何の関係もない者が、しかも幼い子どもが犠牲になる事件が後を絶ちません。その母親の気持ちは大変よく分ります。どんなに辛く悲しい出来事だったことでしょう。その時、信じられなくなったのは何だったのでしょう。実は始めから信じていなかったか、あるいは間違ったものを信じていたのかも知れないのです。突然の出来事に支えにならず、かえって跡形もなく消えてしまうようなものをこれからも信じていてよいのでしょうか。

 かつて、「科学だけが真実で、科学を探求し進歩させればどんな問題でも解決出来ないことはない」と信じていた私がイエス・キリストを信じるようになったのは奇跡としか考えられません。けれども、神にはどんなことでも出来るのです。現に神がそれを可能にしてくださいました。

 誰もが「自分で神を信じる決心をして信仰を持つようになった」と思うかも知れませんが、本物の信仰は神が与えてくださるのです。

 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(ヨハネ6章44節)

 自分の考えや力によって持った信仰は、自分の考えや状況が変わったり、考えていたことに疑いが生じた時、持っていた信仰も分からなくなってしまいます。けれども、神が与えてくださったものなら、たとえ自分で否定しようとしても変わったりなくなったりすることはありません。

 「あなたは自分の信仰は弱くて小さい。だからいつもつまずいてばかりいるのだ。」と思ったことはありませんか。あなたの信仰は自分の力で得たものですか。それとも神から与えられたものですか。

 信仰が分らなくなった時や疑いが生じて不安を感じるような時には、マルコの福音書に書かれている生まれつきの病気を持った子どもの父親のように、こう祈ってください。

 「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9章24節)

 イエスは父親の願い通り完全に癒してくださいました。イエスが「この種のものは祈りと断食によらなければならない」と言われたように、この子の病気はとても難しいものでした。父親の苦労はどんなに大変だったでしょう。「こんな病気を治していただくためには私の信仰はあまりにも小さ過ぎる」と思ったに違いありません。「信じます。不信仰な私をお助けください。」という悲痛な叫びの中に、長年にわたる心配と苦労がにじみ出ています。けれどもイエスは癒してくださいました。

 これによって父親の信仰は大きく膨らんだことでしょう。実はそれがイエスの本当の願いだったのです。イエスはあなたにも同じことをしてくださいます。あなたの信仰が増し加わり、あなたの人生がより豊かなものとなるためです。

 イエスは言われました。

 もし、からし種ほどの信仰があったら、このに、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17章20節)

 神は私たちの知恵や能力をはるかに超えた偉大な方です。「信仰とはこういうものだ」と分ったつもりになった時、信仰の形骸化が始まります。信仰が形式的なものになってそれ以上には進歩しなくなってしまうのです。それでは無限で永遠の神と交わるにはあまりにも貧弱で幼稚過ぎます。「どんなことでも出来ないことはない」と言われるにはほど遠いものです。

 神にはどんなことでもお出来になります。けれども、私たちを造られた方を無視した人生に繁栄は保証されません。自分の考えではなく神が与える信仰を求め続けるなら、そういう謙虚な態度が常に神との新しい関係をもたらしてくれるのです。そのような信仰の態度こそ、かつては罪人であった自分の人生にさえ神の栄光を映し出すことの出来るもので、永遠に生きる者にふさわしいのです。

 今はまだ、ほど遠いと思われるかもしれませんが、心配する必要はありません。それを行なってくださるのも神だからです。神は必ず、あなたの上にも私の上にも、やがてそれを完成してくださいます。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛