祈りの家族への手紙:2008-03


 親愛なる祈りの家族の皆様。

 あなたはいつもお祈りくださっていると思います。私も、あなたのためにお祈りしています。

 祈りはとても大切です。なぜ祈りがそんなに大切なのでしょう。

 ロビンソン・クルーソーの有名な話をご存知と思います。彼はたった一人無人島でいろいろな困難を経験しながら何年も過ごしました。彼が戦った数々の困難の中で一番大きな困難は何だったでしょうか。それは、飢えでも寒さでもなく、孤独でした。たった一人でいることが一番辛いことだったのです。

 人は長い間、誰とも交流を持たないで生きていくことは出来ないように造られているのです。ですから、誰とも交わりを持たずに一人ぼっちでいることが一番辛いことに違いありません。ところが、今は社会全体が個人の大切さを強調するあまり、ほかの人とはあまり深くかかわりを持たない習慣が根付いてきました。そのため、自分が孤独であったことにある時突然に気が付く、ということが多いのです。また、誰にも相手にされなくなってしまっている孤独なお年寄りが多いことが問題になっています。私はあなたが一人ぼっちだと感じることが無いようにといつも願っています。私があなたのために祈っていることを忘れないでください。

 一方、若い人たちの間にインターネットや携帯電話が普及していますが、人と人とのかかわりの形が表面的で浅くなってしまうことが心配です。どんなことでも打ち明けて信頼出来る深い人間関係を持つ習慣を身に付けるにはどうしたらいいのでしょう。

 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。(ローマ12章12節)

 と聖書は教えています。祈りは神との深い交わりを持つことです。人はその造り主である神と交わりを持つように造られているのです。ですから、その交わりを抜きにしては、神に造られた本来の素晴らしい能力を十分に発揮出来ないし、生きていることの喜びを満喫することも出来ません。

 神はどんなことでも私たちの祈りを聞いてくださいます。けれどもそれを知っているのと知らないのとでは大きな違いがあります。神との深い信頼関係の中で、私たちは本当の平安と喜びを持つことが出来るのです。

  ですから、ダビデのようにこう言える人は幸いです。

 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。

 あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。

 私の杯は、あふれています。

 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(詩篇23篇)

 こう言えるようになるためには日ごろから主との関係を整え、深め、親しみを持つことが大切です。そうすれば、悩みの時、苦しみの時、困難が差し迫った時、助けを求めて安心して全てを任せることが出来るのです。

 あまり親しくない隣人に、いきなり「すみませんが、醤油を切らしてしまいましたので、ちょっと貸していただけませんか。」とは言いにくいことでしょう。けれども、日ごろから親しくしている間柄なら、安心してお願いできるし、相手も喜んで貸してくれるに違いありません。

 神との交わりはもっと大切です。神の助けは完全で、永遠に確実です。あなた自身のためにも、日々主との交わりを大切にしてください。そうすれば、どんな困難に直面した時も慌てふためくことはありません。

 神との親しい交わりは、神との関係だけでなく、人と人との親しい関係を築くことをも教えてくれます。聖書はとりなしの祈りを教えています。自分のためにだけ祈るのではなく他の人のためにも祈る事です。それによって、あなたの心は大きく広がってきます。それは、自分のことだけを祈ることによっては得られない経験です。

 困難の中にいる人をとりなして祈る時、状況が変わります。神は私たちが願う前から私たちの必要をご存知ですが、それでも私たちの祈りを求めておられます。とりなしの祈りの場合も同じです。

 神には何でもお出来になり、ご自分がなさろうとしていることを始めから知っておられます。ただ、私たちがその人のためにお願いし、困難から救われるよう求めることを待っておられるのです。それによって私たちが神を敬い隣人を愛し神の力を経験して御心をより深く知るようになるためです。

 祈りはともすると自分中心になりがちです。自分の事だけを求め、自分の願いを通そうとします。ところが、私たちの願いはしばしば間違っていたり、本当に幸せにはしなかったりします。けれども、神のご計画は完全でありいつも最善です。ですから、神の御心を求めて祈り、他の人のためにもとりなしの祈りをするのです。

 イエスもこう祈って私たちの救いのためにご自分の思いを捨てて神の御心にお委ねになりました。

 わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26章41節)

 もし私たちが「どうかこの人を祝福してください」と祈ったなら、その人を軽く扱うようなことはありません。その人のことを親身になって考えます。それがまた相手の心にも伝わり、より良い関係を築いてくれるのです。

 『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。(マルコ12章33節)

 祈りは神の前にたちのぼり、祈っている人の心も、祈りの課題も、祈られている人の状況も全て神の前に明らかになります。神は私たちのためにそれを吟味し、答えてくださいます。ですから神を信頼して祈りましょう。

 祈りの習慣が身についていないために、どう祈ったらよいのか分らないという人も心配ありません。あれこれ悩まないで、先ずあなたの思う通りに祈り始めてください。それが、神に向けられている限り、神は必ずその祈りを正しく導いてくださいます。神の霊が祈りをとりなしてくださると聖書は教えているからです。

 私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8章26節)

 神は今あなたが願っておられることを全てご存知です。私たちがそれを自分の方法で叶えようとすると失敗します。神はあなたの願いを正しい方法でを叶えたいのです。あなたの願いを神の方法に委ねて答えていただきましょう。そのためにも祈りを通して神との信頼関係を築いておくことです。神はそれを待っておられます。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛