祈りの家族への手紙:2008-06


 親愛なる祈りの家族の皆様。

 私が住んでいる地域は昔、武蔵野と呼ばれ、緑と水の豊かな平野でした。今では東京のベッドタウンとして住宅の密集する地域となっています。

 ここには都心から何本かの鉄道が延びていて、毎朝大勢の働き人たちを都心に送っています。ところがこの鉄道がしばしば遅れたり不通になったりします。設備が悪いからではありません。そのほとんどが人身事故によるものです。どんな理由があるにせよ自分から命を終らせようとする人が後を絶たないのです。その人の心にはどんな悩みや苦しみがあったのでしょう。それを打ち明けてすがることの出来る人がいなかったのでしょうか。何とか思いとどまらせることは出来なかったのでしょうか。そこまでに至るその人の日々はどんなにか辛かったことでしょう。おそらく本人以外の誰にも分らないことでしょう。しかし、命を終らせてしまっては何にもなりません。どんな悩みでも理解して受けとめてくださる方がおられるのです。そのことに気付づくことが出来なかったこと、気付かせることが出来なかったことが残念でなりません。

 医学の進歩により平均寿命が長くなり、かつては不治と思われていた難病の多くが治療出来るようになり、長年恐れられていた癌さえ克服できるようになった時代ですが、その反面、多くの人が命を粗末にしています。あまりにも簡単に他人の命も自分の命も奪ってしまうのです。自殺や残虐な無差別殺人が以前より頻繁に起こるようになりました。大切な人の命がそのように粗末にされることを知り、当事者だけでなく皆が本当に悔しい思いをしています。命の素晴らしさや大切さをもっと実感し共感してその尊さを皆で受けとめて生きるために何が足りないのでしょう。

 「希望が持てず、人生に何の目的も見出せない。」と言って、何の関係もない人々を巻き添いにして命を奪っていいはずがありません。

 私たちは今生かされている間、与えられた命をもっともっと大切にして生きられるはずです。人生が楽しい事ばかりだからではありません。たとえ苦しいことや悲しいことがあったとしても、生きる価値に変わりないからです。この命を神から与えられたものとして、その中で起こる全てのことも一緒にしっかりと受けとめることが生きることではないでしょうか。

 それだけではありません。やがてこの命が永遠の命へと受け継がれていくのです。そのために、神は救い主をこの世に送ってくださったのです。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネの福音書3章16節)

 与えられた命を最後の一瞬まで生きて、神が私たち一人一人のために備えておられる永遠の命につなげるためには、イエス・キリストを信じ、罪から解放されて、この方を人生の手本として生きることです。命を与え、救いの道を備えてくださった神は、イエス・キリストを通して私たちがどう生きるべきかを教えておられるからです。

 そのことをしっかりと心に持っているなら、誰でも、喜びの時にも苦しみの時にも、最後まで希望を持って生きることが出来ます。辛いから、苦しいからといって途中で生きることをあきらめてしまうようなことはありません。大きな困難を克服した後には大きな喜びが待っています。

 苦しみのどん底を味わったヨブは「神がおられるならなぜこんなことが起こるのか」とは言いませんでした。神が私たちには分らない何かの理由でこれをしておられるのだと信じたのです。

 私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ。(ヨブ記6章9、10節)

 けれども、しばしば大きな悲劇の現場で「神はなぜこんなむごいことをするのか」などということばを耳にします。悪いことは皆神のせいにして神を恨むことは簡単です。けれども、それでは何の解決もありません。私たちの浅はかな知恵で「人生はこうなってしかるべきだ」と考え、都合の良いことだけを私たちの人生に与えてくださいと神に求めることはできません。神の知恵は私たちのためにもっともっと深く遠いことを見据えておられるのです。

 ただ、神は私たちのやりきれない叫びを聞いてくださいます。なぜなのか分らない時も私たちの叫びを神に向け、その答えに耳を傾けることが出来たら、どんなに良いことでしょう。

 もし、誰かが苦しんでいるとしたら、それを神がご存じないはずがありません。

 困難に直面しなければならないことがあったとしたら、それは神の愛が表わされる特別な機会となるかも知れないのです。

 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネの福音書9章2、3節)

 ですから、あなたが困難に直面して苦しむ時も、「苦しいです、助けてください。」と声を上げることを恥じる必要はありません。隠すこともありません。あなたの心からの叫びを神は聞いてくださいます。あなた自身のためにも、また、あなたを見ている周りの人々のためにも。

 どんな時にも自分の命を大切にし、他人の命を尊重して真剣に生きる人に出会うことによって、周りの人々は少なからず良い影響を受けます。それは次の世代の人々にも伝わります。皆が自分の命も他人の命も尊重して生きるようになることでしょう。ですから、苦しみの時も喜びの時も生きていることの素晴らしさを実感していつも輝いていたいと私は心から願っています。

 あなたは今、生きることに喜びを感じていますか。喜びに輝くことは未来のある若い人々だけのものではありません。残りの人生の時間が多くても少なくても、また、未来に希望を失いがちになるこのような時代だからこそ、人生をより有意義に生きるために一層明るく輝いている必要があるのです。

 あなたの人生を輝かせてください。そして、希望を失いがちな若者のためにお祈りください。もし、機会があったら、神が彼らをこよなく愛しておられることを知らせてあげてください。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛