祝福のメッセージ
レックス・ハンバードのテレビ番組「明日への希望」より
No. 200806
第一のものを第一に
イエスと弟子たちはよく伝道の旅に出ました。オリーブ山を越えて裏側の道を下るとベタニヤという小さな村がありました。このベタニヤにはイエスと弟子たちにとって心許せる親しい友人が住んでいたのです。彼らはそちらに行くたびにその家によりました。いつでも喜んで迎えてもらえるのです。その日もイエスと弟子たちが村に着きこの家にやって来ると、皆は大喜びです。そこにはマルタとマリヤとラザロがいました。マルタは慌てて弟のラザロに言いました。「ラザロ、早く鶏を捕まえて頂戴。大切なお客様のためにとびきりのご馳走を作ってさし上げるんだから。」早速彼女は台所へ行って料理を作ったり、食堂へ行って一番いい食器を出してテーブルに並べたりして、もてなしに大わらわでした。弟のラザロも鶏を捕まえたり料理の材料を運んだりして、主と弟子たちをもてなす準備のために走り回っていました。
ところが、ふとマルタが気が付くと、妹のマリヤがいません。客間をのぞくとマリヤは主の足元に座っていました。主がこう話しておられるのが聞えました。
「道端にいた盲人は群集の中から突然私にこう叫んだ。『ダビデの子よ、私に哀れみを!』ところが、弟子たちはこれを聞いて快く思わないで、彼を黙らせようとしたんだ。『これこれ、他の人たちの邪魔じゃないか。少しの間静かにしていろ』とね。しかし、この人は前より声を張り上げて叫んだ。『主よ、哀れんでください』そこで私が立ち止まって、何をして欲しいか聞くと『見えるようになりたいのです』私はこの人の目を見えるようにしてあげたんだよ。」
皆さんはそのときのマリヤの顔が想像できますか。彼女の目には涙が溢れていました。足の悪い人が歩けるようになったことや聾唖者の口がきけたこと。そして、姦淫の現場で捕らえられた哀れな女。人々は叫びました。「石で打ち殺せ。こんな汚れた女は石で打ち殺すのが掟だ」するとイエスは彼らに言われました。「あなた方のうちで罪のない者が先ず石を投げなさい。」主がかがんで地面に何かを書いておられるうちに彼らは1人づつ立ち去りました。自分の罪を書き出されて、さすがに恥ずかしくなったのです。一人残された女に主は言われました。「あなたを訴える者はどこか。」「主よ、誰もおりません。」「私もあなたを罰しない。帰りなさい。もう罪を犯してはいけない。」
マリヤは類なきイエス・キリストの愛の物語に聞き入っていました。イエスは人をお変えになります。イエス・キリストに出会うと人生が変わります。イエスに会いながら何も変わらなかったと言う人はいません。彼を受け入れた人は祝福を受けます。彼を拒むことは自分の魂と自分の人生を破滅に落とすことになるのです。イエスと会うことは素晴らしいことです。これをよく頭に刻み込んだ上で、情景を思い浮かべてください。ラザロは忙しく働いています。マルタも働いていました。しかし、マリヤはイエスの足元でじっとイエスの話に耳を傾けていました。マルタは客間に駆け込んで言いました。「先生、私がこんなに忙しいのに、妹はあなたのそばでお話を聞いているなんて、あんまりじゃありませんか。こっちでわたしの手伝いをするようおっしゃってください。」主はなんと言われたでしょうか。ルカ10章42節です。
「必要なことは多くはない。1つだけだ。マリヤはその良い方を選んだ。彼女からそれを取ってはならない。」 これこそ、世の知らない食物です。その喜びは何にも代えられません。
時間の使い方を良く考えるべきです。教会へ行く暇がない、祈る時間がない、聖書を読む暇がない、と言うなら、忙し過ぎるのです。聖書に「先ず神の国を求めなさい。」とあります。
人間の第一の務めは、個人的に神を知り神に仕えることです。
第二の務めはクリスチャン・ホームを築くことです。家庭の中心にキリストを置くことです。その次に、主のために働くことです。先ず始めに神の国を求めることです。そうすれば、ほかの物は全て添えて与えられると聖書にあります。
イエスの話の中で、ある農夫が豊作の年に、たくさんの収穫を納めるために新しい倉を建て、自分に言いました。「さあ、安心して飲み食いし楽しめ。食糧はたっぷり蓄えてある。」
神はこの富める農夫に言われました。「愚か者よ。今宵にもお前の魂は取り去られるのだ。」
ソロモンはこの世のあらゆる楽しみを追い求めました。妻も千人いたと言うのです。愚かな話です。ところが、富と権力を極めた彼が最後に悟ったことが箴言1章7節にあります。
「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」
また、サウルは偉大な王でした。けれども、神の祝福を受けながら大切なことを忘れました。神の御心を第一にするのを忘れ、自分の欲望を第一にして神の道に従うのをやめてしまったのです。自分勝手に歩き、ついには自分の命を絶ちました。優れた人物なのに、人生で神を第一にすべきことを忘れてしまったからです。
あなたはいろいろと手を尽くして自分の生活を支え、家族の生活を支え、社会的な地位を築くことにも努めています。これは皆大切だし皆正しいことですが、忘れてはならないことが1つあります。その中でも、神が第一であるということです。そう信じますか。アーメン。
私たちは人生のコースを外れ、この世のことだけに魂を奪われがちです。そして神との交わりを失い、聖霊の声に耳をかさなくなってしまうのです。すると、たちまち悪い思いが忍び込み、私たちの霊的な生活を破壊するのです。私たちは今こそ本来のコースに戻るべきです。
私たちは1947年に船でアラスカの水路を上り、先住民の部落に伝道に行きました。その時川の真中で大きな船が座礁して錆付いているのを見ました。いったいどうしたのかを聞くと、ある嵐の晩、船長が注意を怠ってほんのちょっとコースを外れてしまったというのです。船は尖った岩の上に乗り上げて船底に大きな穴が開いて浸水し、引き上げることが出来なくなりました。乗り捨てられたその船はそれ以来ずうっとそこに錆びたまま惨めな姿をさらしていたのです。
ほんの少しコースを外れたばかりに、人生を狂わせてしまった人がどれほどいるでしょう。
ずっと前、若い夫婦が私の教会に来ました。私は続けて教会に来るようにと勧めましたが、彼らはよく休みました。夫婦喧嘩が絶えず子どもは悪に走り、ついに一家は完全にコースを外れました。夫は、家出した妻が働いていたバーまで押しかけて妻を殺してしまいました。彼はそのまま外に出て道端に座り、同じ銃を自分の喉にあてて自殺しました。何度か教会に来て福音を聞いていたのに、その教えに従って正しいコースを行くことを拒み、滅びの道を行ったのです。
よくお聞きください。もしあなたの魂がコースを外れていたら、あなたは危険です。今こそ、あなたも私も心を新たにして神を先ず第一に置くべきです。そうすれば他の物は全て添えて与えられます。そう信じる方は手を上げてください。ありがとう。では頭をたれ、目を閉じてお祈りしましょう。
今、何人の方が心からこう言えますか。「私は神の教えに従ったコースを歩いています。たとえ今、心臓が止まっても、何の疑いも不安もなく神に会う備えが出来ているという確信があります。」もしそう言えなかったら、今こうおっしゃってください。「私にはいつ死んでも大丈夫だという確信がありません。私のためにお祈りしてください。」
あなたのためにお祈りします。「愛する主よ、私の罪をお赦しください。私の心を正しいコースに導いてください。神を第一にして生き、聖霊の助けによって残る生涯あなたにお仕えします。人生が終る時、天に導いてください。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。」