親愛なる祈りの家族の皆様。
イエスの弟子の一人、ペテロは大変情熱的な人物でした。彼はイエスを大変愛していました。イエスのためなら命をささげても良いと思うほどでした。実際に最後は殉教の死を遂げました。けれども、ペテロも始めからそうだったわけではありません。私たちと同じごく普通の人でした。最後の晩餐の席で、イエスが弟子たちに「今日あなた方は私を捨てて逃げて行きます。」と言うと、ペテロは「他の人たち全員があなたを捨てても、私は決してあなたを捨てたりはしません。」と誓いました。確かに、ペテロもその時は真剣にそう思ったに違いありません。
イエスと一緒にいる時には誰でも確信をもってそう言うことができます。けれども、イエスを遠く感じたり、あるいは去ってしまわれたように思う時があります。弱い自分だけが1人そこにとり残されているように思うのです。けれども、あなたがどう感じようとも、イエスはいつでもあなたとともにおられ、あなたを見守っておられるのです。
イエスはペテロに予告なさいました。「あなたは今晩、鶏が鳴く前に3回私を知らないと言います。」ペテロは「そんなことになるくらいならその前に死にます。」と断言しました。ところが、実際にイエスが捕らえられて連れて行かれると、事情は全く変わりました。ペテロは連れて行かれたイエスのあとにこっそりついて行きましたが、周りの人々から「あなたもあの人の弟子だった。」と言われて身の危険を感じ、恐ろしくなって、「私はあんな人は知らない。関係もない。」と3回も言ってしまいました。すると、すぐに鶏が鳴きました。遠くの方にいたイエスがペテロの方をふり返り、二人の目が合いました。「ペテロは急いでその場を立ち去り、一人になって激しく泣いた。」と聖書に書いてあります。(ルカ22章61、62節)
ペテロはどんなに悲しかったことでしょう。弱い自分がどんなに情けなかったことでしょう。私には彼の気持が痛いほど良く分ります。私も同じことを言ったに違いない、と思うからです。
けれども、イエスは決してペテロから目を離すことはありませんでした。ペテロが「あんな人は知らない。」と言っているさなかにも、イエスはペテロに目をとめておられたのです。
イエスは捕らえられ、十字架にかけられました。私たちの罪を負って命を投げ出してくださったのです。けれども、3日目に死を破って復活なさいました。十字架の死によって私たちの罪の代価を支払っただけでなく、死を超えた命が私たちに約束されていることを保証するためです。
復活の後、イエスは弟子たちに現われて、ガリラヤ湖畔で一緒に食事をしました。食事の後、イエスはペテロに「あなたは他の人たち以上に私を愛するのか。」とたずねました。もちろん、イエスはペテロの心をよくご存知でした。それでも「私を愛するか」と聞かれたのは、ペテロが自分の弱さを自覚しつつもなお、イエスを愛する者となるためです。イエスはペテロにこの大切な使命を用意しておられたのです。あなたもイエスを愛することによって、神の愛を身をもって世に示しているのです。それはあなたの愛によってではなくあなたのうちに働いて下さっている神の愛がそうさせてくれるのです。
聖書は愛について多くのことを教えています。宇宙を創造し、私たちをも造られた神は愛の神だからです。愛することは大切です。イエスご自身がこう勧めています。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』『隣人を自分のように愛しなさい。』(マルコ12章30節31節)
ですから、愛することは、神に似た姿に近づくことです。人は愛する時、神の姿に似るのです。
私たちの周りには愛についての話題が数え切れないほどあります。世界中で語られている物語のほとんどが愛を中心にして成り立っています。それだけ、愛は人間にとって大切な事だと言えます。けれども、人間の愛はしばしば、困難や苦しみを伴ったり、空しい悲劇に終ったりします。愛することが良いことなら、なぜ、喜びではなく多くの困難や問題を伴うことになるのでしょう。
家族、友人、尊敬する人々、あなたは今、誰かを大切に思い、その人を愛しておられますか。そのことによって、あなたの毎日の生活が喜びに満ち、幸せを感じておられるでしょうか。
あなたの真剣な思いやりが通じなかったり、空回りしたり、誤解や行き違いによって反対の結果をつくり出してしまうようなことはありませんか。世代の違い、立場の違い、考え方の違いなどによって、真実な思いが正しく伝わらないことがあって、しばしば人間関係に失望や悲しい結果をもたらします。愛が間違っているからでしょうか。愛が間違っているのではありません。本当の愛は、人と人との正しい関係をさまたげている全ての困難をのり越えるためにあるものです。
愛がなければ、母親は困難で苦労の多い子育てなどやらなくなります。愛がなければ、危険な紛争国へ行って、命がけで現地の人々のために尽くすことは出来ません。愛がこれらの、困難で苦労の多いことを喜んでさせてくれるのです。愛が私たちをそのように変えてくれるのです。
完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネ第一 4章18節)
愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(コリント第一13章7節)
神ご自身も人類への愛が正しく伝わらなかった痛みを経験なさいました。神に背いて、自分勝手な生き方をし、その当然の報いとして自らに滅びを招いている人類を救うため、神の子イエス・キリストが救い主として世に送られました。けれども、人は救い主を十字架にかけて殺してしまいました。それでも、人類に対する神の愛は変わらず、キリストの十字架を救いの道に変えてくださったのです。完全に滅ぼされても当り前で、どうしようもない私たちを、神はなおも救おうとされたのです。それが神の愛です。それと同じ愛を神は私たちに与えてくださるのです。
神の愛は十字架の愛、アガペーの愛です。無条件に相手を受け入れて、自分へのどのような見返りも求めず、相手がどう対応するかにも関係なく、一方的に無制限に注ぐ愛です。
「クリスチャンだから隣人愛を持たなければならない。周りの人を愛さなければいけない。」のではありません。愛は神が与えてくださるものです。神が弱い人間である私たちに目をとめて、神の愛とその力を注ぎ、あらゆる問題や困難を越えてなお人を愛せる者にしてくださるのです。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛