祝福のメッセージ
レックス・ハンバードのテレビ番組「明日への希望」より
No. 200810
カルバリーのギャンブラーたち
さて、今日はゴルゴタという場所にスポットを当ててみたいと思います。この場所はカルバリーとも呼ばれ、イエスが十字架にかかって死んでくださったところです。今日は2つだけこのカルバリーについて心にとめておいて頂きたいことがあります。
第一に、この世には神の子どもであるあなたが愛せない人は一人も存在しません。
あなたはどんな人でも愛することができます。イエスは十字架の上で死のうとしていた時にその秘訣をお示しになりました。では、どうしたら人を愛することが出来るのでしょう。私は何年も前にこの秘訣を見つけてからというものは、愛せないという相手に出会ったことは一度もありません。たとえその人の生活態度や考え方や行ないは嫌いでも、その人自身を愛することは出来ます。
イエスはカルバリーの十字架の上から自分の手足に釘を打ち付けた人々を見てこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。」
イエスは自分の手足に釘を打ち付けた彼らの行ないはお嫌いでしたが、その行為には目を向けず、彼らの永遠の魂をご覧になって、それをいつくしんでくださったのです。だから、そのように祈られたのです。
どうぞ覚えておいてください。人間には誰にも不滅の魂があって、それは永遠に生きるのです。従順な魂として神とともに、あるいは不従順な魂として神なしで永遠に生きるのです。魂を愛するならどんな人でも愛せるはずです。相手の悪に目をとめることなく、愛の人になってください。
聖書の命令は、自分自身を愛するように隣人を愛することです。自分を大切にし、同じように他の人を大切にしなくてはなりません。
第二に心にとめて頂きたいことは、ヨハネ19章23、24節に記されています。
兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
旧約聖書には彼らが「主の縫い目のない衣をくじ引きにする」と預言されています。
私たちはこの兵士たちのようです。神を忘れたり神の名を不用意に使ったりします。
しばらく前のことですが、ロサンゼルスでサムエル・ウイトカという男が妻殺しで起訴され有罪となりました。裁判長から死刑の判決が出た時、彼は飛び上がって叫びました。「俺が有罪なら、神罰を受けてもかまわん。」その通りになりました。
彼は刑務所に送られて死刑の日を待たず、心臓発作で死亡しました。そうです。彼はこの賭けに負けたのです。だまされてはいけません。神を侮ることは出来ません。人は自分の蒔いた種をやがて刈り取ることになります。茨の種を蒔いておきながらとうもろこしの収穫を期待することは出来ません。
もう何年も前のことですが、ニューヨークで36人の人が自ら無神論者を名乗り、神はいないと豪語しそれを証明しようとして新聞や雑誌の記者たちを招きました。何をしたと思いますか。「神なんかいるものか」と言って皆の前で聖書を焼き捨てて見せたのです。聖書が燃えるのを見ながら、彼らは神をあざけり、悪態をつき、全能の神を散々物笑いの種にしました。さらに、猫に洗礼を授けたり、犬のために聖餐式を行なって面白半分に神聖なものを冒涜しました。神は侮られるような方ではありません。種を蒔けば刈り取ります。この人たちはどうなったでしょう。
歴史の伝えるところでは、二人がその夜のうちに死にました。更に3日の内に3人が死に、5年の間に36人全員が死にました。2人が餓死し、7人が溺死し、8人が銃で撃たれ、5人が自殺し、7人は絞首刑になり、1人は凍死し、3人が事故によって死にました。神を侮ったらそのままですむわけはありません。今は無事でも、刈り入れはまだ終わってはいません。全てが精算される日が来るからです。
私は父のことを思い出します。父は53年間伝道したのち主の御許に召されました。父が18歳の頃、ある町で伝道したところ人々が信仰に目覚めたので歓楽街は灯の消えたようになり、賭博場も酒場もあがったりでした。父が隣り町へ移ろうとすると暴徒に襲われ「町を出て行け」と脅されました。彼らは人々が救われて罪の巣窟を離れてしまうのを恐れたのです。散々痛めつけられても父はひるむことなく福音を伝え、教会を建てました。それから3ヶ月で父を襲ったうちの5人が事故によって命を落としました。思いもかけない悲惨な事故でした。神の審きは厳粛です。もし私たちが神の愛と神の言葉を拒むなら、審きを免れることは出来ません。
イエスがカルバリーで十字架にかけられた時、その下で兵士たちはくじを引きました。その中の一人が主の衣を手に入れましたが、祝福はありませんでした。
同じ衣に12年間も病気だったあの婦人が、信仰によって触った時には病気が完全に癒されました。しかし、くじでその衣を取った人は衣しか手に入れませんでした。
これと同じように、もし教会に来た時だけ義の衣を着て、聖書を読み、見栄のために敬虔に振舞うとしたら、救い主に触れることなく主の衣を着るのと同じです。
ギャンブルで神聖なものをもて遊んでいるようなものです。群集はイエスが神の子であることを知るべきでした。予言の成就するのを見て気付くべきでした。
神のことばが私たちにはっきりと教えています。全ての人は罪を犯し、神から栄誉を受ける資格はありません。あなたも罪の赦しを受けなくてはなりません。
キリスト抜きにした私たちの正しさや立派な行ないというものは全能の神の目から見れば不潔なぼろきれです。人が自分の力で救われるなら、イエスの死は無駄です。
私たちの正しさが私たちを救えるならイエスが死ぬ必要はなかったのです。神が愛のゆえに御子を下さり御子イエスが命を下さったので、御子を信じてバプテスマを受ける全ての者は救われます。あなたはもう、キリストをあなたの救い主と信じて心に受け入れましたか。神のことばに従ってバプテスマを受けクリスチャンになりましたか。もしそうでないならカルバリーのギャンブラーと同じです。
この世で最も愚かなのは、自分の魂をいい加減に扱い、ギャンブルに付す人です。金を賭けて負けたら、貧乏になるだけで済みますが、魂を賭けてそれを失ったら、そのギャンブルは永遠にあなたの負けです。あなたは永遠に滅びるのです。
あなたにお尋ねします。あなたは神聖なものをギャンブルに付してはいませんか。人間には2つの義務があります。1つは神を知ること、もう1つはクリスチャンホームを持つことです。まず神の国を求めなさい。そうしたら、他のものはみな添えて与えられます。どうぞ今日、主の御名によって進み出て、罪の赦しと、永遠の命というすばらしいプレゼントを受け取ってください。あなたのためにお祈りします。