親愛なる祈りの家族の皆様。
今年もクリスマスが華やかに祝われています。不況とは言っても、世界中でクリスマスのために莫大なお金が使われ、豪華な飾りやお祝い事が世界中の多くの人々によって行なわれています。
確かにイエス・キリストは世界中の人々によって祝われるにあたいする方です。私たちは出来るだけのことをして、救い主イエス・キリストがこの世に来てくださったことを祝うべきです。
けれども、イエス・キリストはこの世の王たちのように、豪華な宮殿、美しい衣装、贅沢な食卓などの富と豊かさを受けることによってその偉大さ、尊さを示そうとはなさいませんでした。
イエス・キリストはこの世に来られ、貧しい人々、虐げられている人々、病気で苦しんでいる人々を解放なさいました。今でもそうしてくださいます。けれども、それが全てではありません。
もし、癒されることが全てなら、病気を癒された人が今も生きていないのはなぜでしょう。体の不自由な人、悪霊にとりつかれた人や貧しい生活を強いられていた人々が解放されて、自由に主の教えに従って生きられるようになったのは、彼らの信仰が芽生え、育てられて完成するための入り口であって、そこから永遠の命につながっていく本当の信仰へと成長するためなのです。
イエス・キリストは、当時の大都会であったエルサレムから離れた小さな町、ベツレヘムで、貧しい大工の息子としてこの世に来られました。しかも、旅の途中に馬屋の中でお生まれになったのです。全人類の救い主である方がなぜそのような貧しい姿でお生まれになったのでしょう。
それは人々がこの世の栄光栄華に目を奪われて、本当の救いを見失わないためです。この世の富と栄華を支配し、この世の豊かさを私たちと共有することが救い主の目的ではありません。実際に神の子の偉大さを現わすに値するほどのものがこの世に存在するでしょうか。
豊かであってもいいのです。貧しさから救われることは良いことです。ただ、それが救いの最終目的ではありません。人は本当の豊かさ、本当の安らぎというものをまだ知っていないのです。
病気はつらく苦しいものです。その惨めさは経験した人にしかわかりません。ですから、私たちが病気から開放されて健康になることは素晴らしいことで、神はそう願ってくださいますが、それも、私たちが救われるべき最終目標ではありません。私たちの体は永遠には生きられません。
知識や技術が進歩し、人類は多くのことを知り、発明発見して便利なものが次々に世に出て、私たちの生活に役立ち、幸せになったように見えますが、それだけを人類の最終目標としても良いのでしょうか。それによっては、格差の広がり、資源の行き詰まり、環境の危険など、将来への取り返しの付かない不安を作り出すことにはならないでしょうか。
人類の最終的な目標は、どんな人にもやさしい、安心して長く続けられる、しかも永遠に変わらないものであるはずです。そんな難しい課題を人類に知らせるために、イエス・キリストはこの世に来られ、私たちに教えておられるのです。その根本は罪からの救いと神との和解です。罪から救われて、神と和解し、永遠の命を持つことです。そこに、本当の信仰が必要なのです。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブル11章1節)
信じることや信頼することは素晴らしいことです。人に信頼されることもすばらしいことです。信頼される人は目に見えない宝物を与えられて持っているようなものです。私たちは目に見えないものをもっと大切にすべきです。世界中で人と人とが信頼によってつながるようになってほしいと誰もが願っています。けれども、罪深い私たちがこのままで、それが可能になるでしょうか。
ハンバード牧師は世界中の人々にイエス・キリストの福音を伝えるために生涯をささげました。この世に何も残しませんでしたが、献身的な働きにより、世界中の人々の心に信仰を残しました。
ハンバード牧師が日本への伝道を始めた時、私のような者を選んで、全面的に信頼してその働きの全てを任せてくださいました。私はその信頼を一生の宝とし、その信頼に応えたいと心から願い、そのこころざしを最後まで果たす決意をしています。
人と人との信頼関係はすばらしいものですが、神との信頼関係はもっと大切です。
信仰がなければ、神に喜ばれることは出来ません。(ヘブル11章6節)
私たちの信仰はしばしば試されます。信仰が吟味され、本当の信仰のみが重大な役割を果たす時が来るからです。私たちがこの世においても祝福され、健康に恵まれ豊かであることは神の御心ですが、それだけに心を奪われて、一番大切なものを見失ってはなりません。
飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。(箴言30章9節)
この世の祝福だけを求めて心を奪われることなく、信仰が試されて困難の中を通る時にこそ、主に信頼することを学びましょう。試練の時は過ぎ去り、鍛えられた信仰が残ります。私たちが本当の信仰を必要とする時、それを確実に働かせて永遠のものを受け継ぐことが出来るためです。
世と世のものは過ぎ去ります。しかし、信仰と希望と愛はとこしえに変わりません。神が備えておられる永遠の住まいは鍛えられた信仰によってのみ受け継ぐことが出来るのです。
イエス・キリストはこの世に来られ、貧しい人々、虐げられている人々、病気に苦しんでいる人々を解放なさいました。今もそうしてくださいます。ですから、それを求めてもいいのです。神はその祈りをも聞いてくださいます。けれども、その祈りが聞かれることだけが全てではありません。それは、信仰を働かせるための入り口であって、そこから本当の信仰が育っていくのです。イエスは癒しの奇跡を行なわれた時、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。病気が癒されるのも、苦しみから救われるのも、それによって信仰が強められて育つためです。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(ヨハネ11章40節)
私たちが主を信頼することによって神の栄光が現わされます。神は私たちの信仰を求めておられます。それは私たちの未来に役立つからです。信仰が私たちに永遠を受け継がせるからです。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3章16節)
この世の財産は遺言状によって受け継ぐことが出来ますが、永遠の命と神の国は信仰によらなければ受け継ぐことが出来ません。私たちを愛してくださる神は、私たちのために備えられた永遠の国を受け継がせるために、私たちの信仰をイエス・キリストを通して育てておられるのです。
あなたは愛されています。
メリー・クリスマス
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛