祈りの家族への手紙:2009-06


 親愛なる祈りの家族の皆様。
 あなたは親しい人の死に直面したことがありますか。

 そんな時「生きることの厳粛さ」を感じませんでしたか。こんなに広い宇宙でも、地球以外にはいまだにどこにも生きている物を見つけることはできません。ところが、私たちは生き物に囲まれて生活しています。ですから、生きていることがどんなに素晴らしいことかあまり考えたことがないかも知れません。しかし、命を持っているということは本当に特別なことです。

 ところが、日本だけでも毎年3万人以上の人が自分で自分の命を終わらせています。とても心が痛みます。死を選ぶまでには誰にも言えない大きな苦しみや絶望があったに違いありません。それでも、神がお許しになる限り生き続けるべきだと思います。自分で自分の人生をどう評価しているとしても、生きてさえいれば、悲しみや絶望を超えたところに、神による喜びを見出すことが出来るからです。生きる喜びを見出すことが出来れば、死にたいという思いがあなたを支配することも、生きることの痛みに絶望することもありません。本当の自由が得られるのです。

 一方、こころざし半ばにして無念にも死を迎えなければならない方もいます。その悔しさはとても言葉では表せないことでしょう。「自分の人生でやるべきことを思う存分果たしてから死を迎えたかった」と思ったことでしょう。

 死は現実です。人生には理解できないことがあまりにもたくさんあります。私たちに命が与えられていることも、死ななければならないことも、完全に理解することは私たちにはできません。けれども、神にとって意味のないことは何一つありません。神は全ての事をその御手におさめておられます。ですから、神に近づき、神のことばを学ぶことにより少しずつ疑問が解けてきます。

 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主とともに生きるためです。
 (テサロニケ第一、5章10節)

 私たちは生きています。神の恵みによって生かされているのです。生きているので死もあるのです。生きていなければ死ぬこともありません。生きている者にとって、死ぬことは避けられないことで、ある程度は厳粛で怖いものです。死が平気であってはいけないのです。けれども、死をいたずらに恐れる必要はありません。私たちが目覚めていても眠っていても、すなわち、生きていても死んでも、私たちは主とともに生き続けるからです。イエス・キリストはそのために死んでくださったのです。

 死が全ての終わりではありません。私たちが通常「死」と呼んでいるのは肉体の死です。私たちの魂は肉体の死によっては終わりません。肉体は滅びても魂は永遠に生き続けます。神は人を肉体だけの生き物としてお造りになったのではないからです。

 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2章7節)

 神が御自分の霊の息を吹き入れて、人を神に似た霊的な性質を持つ者として造られたのです。ですから、私たちが霊的な面である「神との関係」を大切にして生きることによって、肉体的な死が私たちの終わりではなく、恐ろしいものでもないことが分かって来ます。

 死の問題を克服し、死は決して恐ろしいものではないことを知ることも大切ですが、それが、全てではありません。この手紙を読んでくださっているほとんどの方がイエス・キリストの身代わりの死を心に受け入れて、永遠の命の約束を確信し、揺るがない平安を持っておられると思います。ですから、皆さんに、死の恐れを克服することにではなく、むしろ、生きることに集中していただきたいのです。しかも、豊かに生きていただきたいのです。与えられた命を十分に活用して、死の問題に勝利した者にふさわしく、喜びに満ち溢れて、主とともに生きてほしいのです。

 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
 (ヨハネ10章10節)

 私は、ある老人ホームを訪問して、そこにおられる方々が、あまり幸せそうに見えなかったことにとても心が痛みました。その方たちがそこに至るまでの人生には、喜びも悲しみも苦労もたくさんあったに違いありません。けれども、人生の最後を過ごす住処で、つまらなさそうに毎日を送っておられるのは決して神の願っておられることではないと思いました。ですから、特に祈りの家族の皆さんにはそうなってほしくありません。たとえ、人生の最後を過ごす時が来ても、毎日を喜びに満ちて、楽しく、感謝に溢れ、満足して過ごしていただきたいのです。

 私は遠い親戚にあたる一人のお年寄りを思い出します。その方は認知症も進み、自分の身の周りのことも人手を借りなければなりませんでした。けれども、いつも明るく楽しそうで、周りの人を幸せな気持ちにさせていました。家族の方たちも喜んで世話をしていました。実際、一緒にいた時とても楽しくなりました。その方を知っている人たちは誰もが「こんな老人になりたい。」と言っていました。私が知る限り、決して特別な方ではありません。ただ、不平や不満を言わず、いつも感謝し、喜びを全身で表していただけのことです。それだけで、あんなに幸せいっぱいの人になり、周りの人をも幸せにしていたのです。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ第一、5章16-18節)

 神が望んでおられることを実行しようとするなら、神はそれを助けて、最後まであなたと共にいてくださいます。そして、あなたの人生を喜びと平安で満たしてくださいます。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛