親愛なる祈りの家族の皆様。
神はあなたの切なる願いを何でも聞いてくださいます。
クリスマスは神の愛が人類の歴史上に最も顕著に表わされた出来事です。今から2000年程前に、神ご自身が人類を救うためにこの世に来てくださったからです。それは、人間の常識では到底考えられない、神から人類への特別なプレゼントです。
闇の中を歩んでいた民は大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ9章2節)
クリスマスが近づくと親たちは子どもが今一番ほしいのは何だろうと考えます。出来ることなら何でも叶えてやりたいからです。けれども、子どもたちのほしがる物が大人の目から見ると必ずしも子どもにとって良いものとは限りません。それが親たちの悩みです。子どもたちはほしがっているけれど、害になる物は与えたくない。もっと良い物を見つけて、子どもたちを喜ばせてあげたいと願っています。
神は私たちの思いをはるかに超えた方であり、私たちとは比べ物にならない大きな視点から私たちのためになることを行なってくださいます。私たちの人生そのものも神から与えられた特別な贈り物です。その人生の中に、神が私たちのために用意してくださっているものは全て良いものです。主にあって私たちの喜びと感謝が満ちあふれるためです。ですから、私たちには完全に理解できないことがあっても、信仰によって受け入れて感謝し喜ぶべきです。
ある人が言いました。「もし本当に神が愛なら、私の願いをみんな叶えてくれてもいいじゃないか。わがままかもしれないが、神には何でも出来るというんだから。」
確かに身勝手な言い分で、結局それはその人の益にはなりません。けれども、神は時としてそのわがままな願いを通して、もっと深い真理を教えてくださることがあります。
私はいつも自分自身がそのように扱われているような感じがします。私は神に喜ばれる歩みをいつもして来たとは決して言えません。失敗もいろいろありましたが、それでも神に従って生きようと決めていました。そんな私に、神は溢れるばかりに恵みを注いで、意義ある人生へと導いてくださっています。神は全てのことを働かせて益とし、正しい道へと導いてくださいます。神はあなたの人生もそのように扱ってくださると私は思っています。
ですから、どんなことでも安心して神に求めて良いのです。「こんなことを祈っては身勝手ではないか」と思わなくてもいいのです。神は何が私たちにとって最善かをご存じだからです。
もし私たちのわがままな願いが私たちを滅びに導くとしたらどうでしょう。そのまま実現したら大変です。そういう時には私たちが考えている通りにはなりません。そこに神の愛があります。神は私たちの間違った願いからどうしたら良いものを生み出せるかをいつも考えてくださっている、私にはそう思えてなりません。
実際に聖書の中には神が人間のわがままを聞いてくださった例がいくつも書かれています。旧約聖書サムエル記8章にはイスラエル民族が自分たちの王を求めた記事があります。
それまでは神は予言者を通して直接イスラエル民族を治めていました。ある時人々は「私たちにも周りの国々のように王をください。」と言いました。それは神の心を痛めました。神への大っぴらな反逆だからです。けれども、神はイスラエル民族のわがままを聞いて王をお立てになりました。最初の王はサウル、次にダビデでした。良い王もありましたが、悪い王もあり、そのためにイスラエル民族は大いに苦しみ、ついに国を失うことになったのです。
けれども、後になって神は本当の王、究極の王としてイエス・キリストを私たちにくださいました。イスラエル民族が求めた王は周りの国々が持っていたような不完全な王であり、そのために人々はしばしば苦しみましたが、神のご計画に沿って世に来られた王は、王の王、主の主であり、正義と力と平和の君であり、完全な支配者です。
神が最初の人をお造りになったとき、神は人にご自分と同じ自由意思をお与えになりました。万物を作られた神の全能と完全さは、優秀な職人や技術者が時計やロボットを作る時の完璧さとは違います。人が何一つ間違いなく作り上げた優秀な製品は、設計した通りにしか動きません。設計した通りに動かなかったら不良品であり失敗作だからです。
けれども、神が人をお造りになったとき、人は神の意志の通りに動くとは限りませんでした。人は自分の意思で自由に判断して自分勝手に行動することも出来るように造られているのです。人は神のことばにそむき自分の意思で神に従わないことの方を選んでしまいました。神は人間のわがままをお許しになりました。けれども、その結果人類に大きな苦しみが始まりました。その後も、人の自由意思は、しばしば神の意志に背く行ないを選びました。それでも神は人から自由意思を取り上げることはなさいませんでした。むしろ、その自由意思を用いて、神のもとに帰る道を選ぶ決断をするようご計画をおたてになったのです。
神は私たちのそむきの罪を全てご自分が負ってくださいました。神が人となってこの世に下り私たちの罪を負ってくださったのです。この方こそイエス・キリストです。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53章6節)
アダムとエバは自分勝手な選択で神のことばに従わない方を選び、人類に罪と混乱をもたらしましたが、イエス・キリストは神の御心に完全に従うことによって人類の罪と混乱を取り除いてくださいました。神はイエス・キリストを人類への愛のこもった贈り物となさいました。私たちはひとりひとりが自分の意志でその贈り物を受け取らなければなりません。
イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに十字架でその代価を払ってくださったことを信じて、自分の意思でそれを受け取る決心をするなら、神は私たちの罪を全てキリストの上に置き、私たちを罪のない完成した神の子どもとして、永遠のいのちに迎え入れてくださいます。
この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1章12節)
クリスマスにあたり、イエス・キリストを神からの贈り物としてもう一度心にお迎えください。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛