祈りの家族への手紙:2010-04

 
 親愛なる祈りの家族の皆様。

 誰の人生にも目的があり意味があります。

 あなたも人生の目標を持っておられることでしょう。あなたが生かされていることには意味があるはずだと感じておられるからです。けれども、多くの人がその意味を見いだせないでいます。自分で自分のことを完全に理解することは簡単なようで難しいのです。自分はいったい何者で、何のために生まれて来て、人生が終わったらどうなるのだろう。人生の究極の目的は何だろう。分からないことばかりです。けれども、あなたを造られた方ならあなたのことを一番よく知っておられ、あなたが何のために生かされていて、どこに向かって行くべきかを知っておられます。ですから、自分の造り主を知ることは自分を正しく理解することであり、人生の目的が何であるかをを知る近道です。

 「神を知るなどとても難しい」と思うかも知れません。確かに神を完全に理解することは出来ません。私たち人間は神をしりぞけ、神に素直には従いたがらない、罪の性質があるからです。けれども、神はすでに、今のままのあなたを受け入れて罪の束縛から自由にしてくださいました。後はあなたがその事実を受けとめればいいのです。そうすれば、神は思いのほか私たちの近くにおられる方であることが分かります。

 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4章8節)

 私たちは偶然にこの宇宙に存在するようになったのではありません。創造主である神は私たち一人ひとりに特別な思いをかけ、ご自分に痛みを覚えるまでに私たちを愛してくださいました。それにもかかわらず、私たちは神の思いとは関係なく、与えられた自由意思を用いて気ままに生きて自分で人生の目標を見出そうとしました。神に背を向け自分勝手に生きて罪を重ねてしまいました。神は私たちの罪の代価を清算するために大きな犠牲を払わなければなりませんでした。

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5章8節)

 神はそれほどまであなたや私を愛してくださったのですから私たちの人生に意味がないはずがありません。私たちは神にとって大切な存在に違いありません。罪のゆえに神に背いて価値のないものとなってしまいましたが、今はキリストの命によって罪をきよめられ、造られた時の「神に似た姿となる」という目標に向かって歩き始めることが出来るのです。神が私たちをこんなにも愛し、心にかけてくださっているのは、私たちを本来のあるべき姿に完成するためです。ですから、私たちの側の人生の目標は人間本来の姿を取り戻して神の被造物らしく生きることです。

 私たちには神の愛が必要です。神の愛がなかったら、私たちは神に似たものとなるどころか、永遠に空しい存在となってしまうからです。私たちは神の愛と憐れみなくしてはまともに生きることさえ出来ないのです。神はそれをよくご存じです。

 あなたはすでにイエス・キリストを救い主として受け入れておられることでしょう。しかし、現実にはどんなに頑張っても経済的に困窮することもあり、思いがけない出来事にみまわれることもあります。肉体の弱さを感じて不安になることも病気で苦しむこともあります。いかに文明が進歩してもこの世は完全ではありません。私たちの肉体も永遠には生きられません。それが世の現実です。現実だからといって、困難に落胆し、死の恐怖におののいて生きていかなければいけない理由はありません。心の目を開いて神を見上げ、神の助けを求めることが出来るのです。神はあなたを待っておられます。現実の困難だけを見て失望し、目標を見失ってはいけません。

 神の教えに従って歩むのです。「神の教えに従う」と言っても、律法や規則に束縛されることではありません。本当の自由を得るためです。かつての奔放な自由ではなく、本当の自由です。私たちには初めから自由意思が与えられていて、何をするのも自由です。しかし、行なったことの結果は刈り取らなければなりません。ですから、自由意志で神の教えに従うことを選ぶのです。

 どんな競技にもルールがあります。ルールがあるので思い切り競い合って楽しむことが出来、勝利を喜ぶことも出来るのです。ルールがなかったらどんなに力一杯やっても混乱するだけで面白くも何ともありません。その結果、悪くすれば自分が大怪我をしたり、他人に大怪我をさせたりすることにもなりかねません。たとえ勝ったと思っても、自分以外には誰も認めてくれません。

 神のルールは私たちを束縛するものではありません。私たちをあらゆる危険や破滅から守ってくれるものです。私たちが自分勝手な道を行けば危険を招き、人生を台無しにしてしまうでしょう。苦しんだあげくむなしい結末を刈り取ることになるのです。そのような自分勝手な行ないをすることは決して自由とは言えませんし勝利を喜ぶことも出来ません。本当の自由は神の教えに従って生きることです。与えられた自由意思を正しく用いて神の教えに従って力いっぱい生きることを選び、神に似たものとなることを目指すのです。

 私たちは既にルールなしで人生を始めてしまったかも知れませんが、今からでも決して遅くはありません。今までのルール違反はイエス・キリストが私たちに変わって罰を受けてくださり、全て赦してくださいました。今はあなたも私も神の教えに従った秩序のある人生を新しく始めているのです。そこには平安があり、喜びがあり、勝利を受け取る希望があります。失敗する時もあり、違反をしてしまうこともあるかもしれませんが、正しい審判者イエス・キリストのことばに従って悔い改め、そこからやり直すことが出来ます。ですから、いつでも審判者から目を離さないでいましょう。そうすれば、人生に喜びと希望を見出しつつ、目標に向かって走り続けることが出来ます。最後には公平な審判者である主が勝利の冠を与えてくださいます。

 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(テモテ第二の手紙4章8節)

 義の栄冠は神に似た姿に完成した証です。私たちはそれを目指しているのです。あなたが目標を完成した時、天に大きな歓声が起こることでしょう。何という喜び何という感激でしょう。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛