祝福のメッセージ:2010ー05

祝福のメッセージ

福音書にあらわされたキリスト

 No.201005

⑤ ヨハネの証言とイエス・キリストの宣教の始め


 イエスは30歳になられました。遠い親戚に当たるザカリアとエリサベツの子、後に洗礼者と呼ばれたヨハネも、すでに30歳の成人を迎えていました。

 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。(マルコ1章2-4節)

 ヨハネが救い主の到来の前ぶれとして用いられた人物であることは、マタイ3章、マルコ1章、ルカ3章が調和して伝えています。

 洗礼者ヨハネのメッセージは非常に厳しく、人々の罪をあからさまに指摘して「悔い改めなければ永遠の滅びの火に焼かれる。」と警告しました。ある人々は彼こそ約束のメシア、救い主ではないか、とさえささやき合っていました。けれども、ヨハネ自身はそれをはっきりと否定しました。

 「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」
(マタイ3章11節)

 こうして、イエスは多くの人々に知られるようになり、イエス・キリストによる福音宣教の働きが始まったのです。

 イエスが最初に行なわれたのはヨハネから洗礼を受けることでした。イエスは全ての人の手本となるために、洗礼をお受けになりました。水から上がられると聖霊が鳩のような姿でイエスの上に下り、天からの声が聞こえました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」この言葉もマタイ、マルコ、ルカの福音書が口をそろえて証言しています。

 続いてイエスが行なわれたことは荒野で試練を受けることでした。

 イエスがお受けになった試練は3つの事柄についてです。これらの試練に対するイエスの対処法は私たちが試練を受ける時の良い手本です。

 イエスは40日間の断食の後、空腹になられました。私たちは生きていく上で、食べ物が必要です。そのために苦しい労働もします。食物は確かに必要ですが、それさえあればよいというわけではありません。

 イエスは「人はそれだけで生きているのではない。」と言われました。

 『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』(マタイ4章4節、ルカ4章4節)

 これは人が他の動物とは決定的に違う点です。人には衣食住と同様に、神の教え、神の言葉、神との交わりがなくてはなりません。

 次にイエスが試みをお受けになったのは、聖書に書いてある言葉を自分に当てはめて神の言葉を試すという誘惑です。神は私たちをあらゆる危険から守ることを約束してくださいました。災いから救い、困難の中から引き上げ危険から守ってくださいます。けれども、そのことをあえて試してはいけないのです。

 イエスは聖書から『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてあるではないか。と言ってその誘惑を退けられました。

 最後に、世界中のありとあらゆる栄華と誉れを自分のものにするという誘惑をお受けになりました。大きな富を築きたい、有名になって人々からの尊敬を得たい、立派な人物として称賛されたい、という願いは多かれ少なかれ、誰の心にもあります。けれども、そのためには自分の信念も魂も明け渡たして、しばしば真の神ではないものを神のように崇めなければならないことにもなりかねません。ですから、イエスは『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書かれている聖書のことばによってそれを退けられました。

 イエスがお受けになったこれら3つの試みの一つ一つは、現代の私たちにも当てはまるのです。

 富、名声、権力、それ自体が悪というわけではありません。けれども、それによって私たちが、もっと大切なことを忘れたり、見落としたりしたとき、その背後に潜む罠に陥ってしまうのです。誘惑は誰の上にもやって来ます。イエスは、試練を退けることを通して、私たちの人生に一番重要なことが何であるのかを教えておられるのです。

 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。(マタイ26章41節)