祝福のメッセージ:2010ー07

祝福のメッセージ

福音書にあらわされたキリスト

 No.201007

⑦ イエスのガリラヤ伝道により大勢が癒された


 イエスはご自分の郷里のナザレでいつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を読もうとして立たれました。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられました。

 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカの福音書4章18‐19節、イザヤ書61章1節も参照)

 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられると会堂にいるみなの目がイエスに注がれました。そこでイエスは人々にこう言って話し始められました。

 「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

 ガリラヤ地方でイエスが宣教を始められると大勢の病人が癒され悪霊にとりつかれた人は解放されらい病人はきよめられ足なえは歩けるようになりました。それゆえ、ますます大勢の人々がイエスのもとに集まってきました。イエスはその一人ひとりをみな癒し、解放なさいました。イザヤ書の預言のとおりです。

 イエスは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)と言って、悪い行いから離れて神に目を向けるよう人々を説得し始めましたが、イエスの教えは説教だけではありませんでした。神の御心を伝えることでした。神の御心は私たちが霊的にも肉体的にも恵まれて健やかであることです。イエスはそれを自ら実行なさったのです。

 神は愛です。病人が癒されて元気になることを神は願っておられます。苦しんでいる人がその問題や苦しみから解放されることも願っておられます。ですから、もしあなたが問題を持って苦しんでおられるとしたら、あなたの問題がどんなものであれ、イエスに助けを求めてください。イエスはあなたの上に神の御心を行なってくださいます。

 イエスが宣教を始められた頃、大勢の病人を癒し、汚れた霊にとりつかれた人々を解放なさっていたことはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ全ての福音書が記録しています。

 癒された人々は、風邪を引いて熱が出たような軽い病気の人から生死にかかわる重い病気の人に至るまでさまざまでした。

シモンのしゅうとめの癒し
 イエスと弟子たちの一行がシモンとアンデレの家に招かれました。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたのでそのことをイエスにお話しすると、イエスはしゅうとめの手をとって癒してくださいました。元気になったしゅうとめはイエスの一行をもてなしました。

らい病人の癒し 
 翌日、大勢の群集が集まってきました。その人たちを皆お癒しになりました。その中の1人のらい病人がイエスのところに来て「お心一つで、私はきよくしていただけます。」と言うと、イエスは「わたしの心だ。きよくなれ。」と言ってその人の病気を癒してくださいました。

王の役人の息子の癒し
 2日後、イエスの一行は再びガリラヤのカナを訪れました。そこは婚礼の席で水をぶどう酒に変える奇跡を行なわれたところです。そこに病気の息子を持った王の役人がイエスを尋ねて来ました。その息子は重い病気で死にかかっていました。その役人は「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と必至でイエスに頼みました。

 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行ったところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。(ヨハネ4章46-51節)

 私たちはしばしば、命が危なくなるような重病になると初めて祈り始めるという傾向があります。自分の手に負えなくなるとイエスのもとに行って助けを求めるのです。それまではイエスのもとへは行かないのでしょうか。

 小さな子どもは、ちょっとした痛みでも、どんな小さなことについても、母親のもとへかけて行って訴えます。母親の注目を求めるためです。そういうことの積み重ねで、その子はどんな時でも母親のもとへ行けば大丈夫という確信と平安を得るのです。

 実際、あらゆる病気の人がイエスのもとに行き、癒していただきました。それによって、人々は神がついに再び彼ら(イスラエル)とともにおられるようになったと言う確信と平安を得たに違いありません。

 どんな小さなことのためでも、イエスのもとに行って助けを求めてください。

 日々そのような信頼の積み重ねが、大きな問題に直面した時でも平安を失わない秘訣です。