祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201008
⑧ 多くサマリヤ人がイエスを信じた
イエスの宣教の初めにおいては、ガリラヤ地方で多くの人々が病気を癒され、悪霊から解放され、力ある奇跡の業を見てイエスを信じるようになりました。
けれどもユダヤからガリラヤに行く途中で立ち寄ったサマリヤの町においては、イエスは奇跡よりもむしろ、神を礼拝する態度について重点的に教えておられます。
サマリヤ地方はエルサレムとガリラヤ地方とのちょうど中間に位置しています。そこにヤコブの井戸がありイエスは旅の途中そこで休憩をお取りになりました。
主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は6時ごろであった。(ヨハネ4章3-6節)
そこへ1人のサマリヤ人の女の人が水を汲みに来ました。当時の呼び方で第6時とは昼ごろのことです。
誰もが食事か、休憩をしている時で、そんな時に水を汲みに来る人などほとんどいません。この女の人は他の人たちと顔を合わせたくない事情があったようです。弟子たちは食料を買いに出かけていて、イエスだけがそこにいました。イエスは水を汲みに来たサマリヤの女に「水を飲ませてください。」と頼みました。するとその人は驚いてこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、サマリヤ人の私に水を飲ませてくれと言うのですか。」
イエスがサマリヤ人と話をして福音を伝えたことは、ユダヤ人にとってもサマリヤ人にとっても驚くべき事でした。サマリヤは歴史的にはユダヤと対立していたイスラエルの北王国に属していました。早くからアッシリアによって滅ぼされ、多くの人が奴隷として連れて行かれました。その後帰国した人たちは、アッシリアの宗教の影響を大きく受けていました。ですから、ユダヤ人たちは律法に異教の教えを混ぜていた彼らを警戒して交わりを持とうとしませんでした。
けれども、イエスは彼らを分け隔てなさいません。福音はユダヤ人だけのためではなく、全ての人に向けられていることが人々にはっきりと示されたのです。
イエスはまず、サマリヤの女に命の水についてお話になりました。
「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(4章10節14節)
イエスとサマリヤの女との会話は続きます。
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」(4章15-18節)
この人は、ふしだらな人間関係を繰り返すことによって渇きをいやそうとしていたようです。けれども、イエスこそ永遠に乾くことのない生ける水の与え主です。
自分の身の上を全部言い当てられたことに驚いたこの人はイエスは預言者に違いないと思い、ユダヤ人とサマリヤ人の信仰と礼拝の仕方の違いについて論じ始めました。
ユダヤ人はエルサレムの神殿が礼拝の中心でした。けれども、サマリヤ人は旧約聖書の申命記11章29節により、近くのゲリジム山が礼拝の場所でした。けれどもイエスはこう言われます。
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(4章24節)
生ける真の神を礼拝するのは場所や形式ではなく、霊とまことによる礼拝です。
イエスは2日間そこに滞在し、大勢のサマリヤの人々がイエスを信じました。
イエスは弟子たちに言われました。
目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。(4章35、36節)
イエスの宣教は始まったばかりですが、すでに多くの人々が「この方こそ旧約聖書に約束されている、神から遣わされた救い主キリストである」と信じイエスを受け入れています。田畑が色づいて収穫を待っているように、多くの人々の心が開かれ、救いを受け入れる用意が出来ていたのです。
旧約聖書の預言が終わり、神からの語りかけが途絶えていた400年間は暗黒の時代と呼ばれています。その暗黒の時代を破って救い主イエス・キリストがこの世に来られ、神の恵みと救いを語り始めたからです。
私たちの周りにも真の神を信じない人が大勢います。福音にも耳を傾けません。けれども、心の奥では霊に飢え渇いて、いのちの水を求めているのです。