祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201009
⑨ 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です
イエスはガリラヤにおいて多くの病人をお癒しになり、数々の力ある業によって神の栄光を顕わされました。
その頃イエスが道を歩いておられると、収税所に机を出して税金を取り立てる仕事をしている人がいました。イエスはその人に声をおかけになりました。すると彼は何もかも置いてイエスに従いました。彼は病気だったわけではありません。比較的裕福でもあったと思われます。けれども、彼の心の中には大きく心にかかることがあったに違いありません。彼は同胞から罪人呼ばわりされ、憎まれていたからです。
イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。マタイ9章9節(マルコ2章14節、ルカ5章27節も参照)
そこで彼はイエスの一行と行動を共にし、食事に招かれるようになりました。人々はイエスが収税人(取税人)や罪人と食事をしている、と言って非難しました。
当時収税人というのは、ユダヤ人でありながらローマの手先となって通行税や関税という名目でユダヤ人から税金を取る役目を請け負っていたからです。しばしば、ローマの権力を笠に着て、きめられた額以上の金額を取り立てたりして、私腹を肥やしていたようです。そのために、ユダヤ人たちは収税人を売国奴、裏切り者、罪人と呼んで忌み嫌っていました。その上、彼らは仕事上ローマの役人たちと交際をしていたため、異邦人と親しくしている汚れた者と呼ばれ、罪人と同様に扱われていました。前回の「サマリヤ人への伝道」の中でも触れましたように、ユダヤ人はかつて兄弟のような関係にあったサマリヤ人とさえ交わりを持つことを嫌っていたのですから、異邦人であるローマ人と親しくすることなどとんでもないことでした。
けれども、イエスは収税人だけではなく娼婦や罪人と呼ばれていた人々さえも招いてしばしば一緒に食事をなさいました。それでユダヤ人やパリサイ派の人たちは「罪人の仲間になった。」と言ってイエスを非難したのです。
イエスは言われました。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。」
ユダヤ人は自分たちが神に特別に選ばれた民族であることに強い自負心を持っていました。確かに、神はユダヤ民族を選民となさいました。けれども、それは彼らにその価値があったからではありません。他の民族への証しのためでした。神に従うなら祝福を受け、神の教えから離れるなら困難に直面しなければならない、という大原則を彼らの歴史を通して全世界に示すためでした。また、この民族から救い主を世界に遣わすためでした。
律法学者もパリサイ人もユダヤ民族の代表であり、指導的な立場にあった人たちでした。けれども、彼らは神の教えを形骸化させ、自分たち流の解釈によって忠実に守っていると主張していました。それは、イエスが指摘しておられる偽善者の姿であって、神の御心とは遠いものでした。人は罪を犯しているため自分の力では神の求めておられる聖さや完全さには到達できません。
イエスがこの世に来られたのは、罪人を尋ね出して救うためです。イエスご自身も言っておられるように、元気な人を選び出すことでもなく、「自分は清く正しい」と思っている人を救うためではなく、癒しを必要としている人、救いを必要としている人のためにこの世に来られたのです。ですから、イエスの周りには癒しが必要な病人が大勢やって来ました。イエスはその一人一人を癒してくださいました。
罪人を尋ね出して救うために来られたイエスの周りには、社会からのけ者にされている人、ついていけないで落ちこぼれた人、そして罪人と言われている人が大勢集まっているのを見たパリサイ人や律法学者たちは「あれは罪人の集団だ。」と言いました。彼らは自分たちも神の前には罪人であることを自覚していませんでした。
自分は健康だ、自分は清く正しいと思っている間は神の助けを求めようとしません。けれども、神の前に本当に「聖く正しい」と言える人がいるでしょうか。「自分は完全な人間だ。」と言える人など一人もいません。
罪人と呼ばれていた人たちとイエスが食事をするのを見て「彼は罪人の仲間だ」と言う律法学者やパリサイ人は「自分たちは律法を忠実に守っているので完全だ」と主張していますが、神の前に完全だったわけではありません。全ての人は罪を犯しているために神の栄光に値しなくなっています。(ローマ3章10節参照)
人間の努力や規則によってでは神の聖さにはとうてい届きません。
ところが、神は聖なる方であって罪の全くない完全な者を求めておられるのです。人はすでに罪のために神の求めておられる聖さとはほど遠いものとなっています。
自分の力では健康になれない大勢の病人が癒されるためにイエスのもとに来たように、自分の力で神の求める完全な人間にはなれないことを自覚した罪人がイエスのもとに来ました。イエスは彼らの弱さを理解し、彼らを慰め彼らの友となってくださいます。大勢の人が病気を癒され悪の霊から解放されました。けれども、大切なのは次の一歩です。
それは、バプテスマのヨハネが「見よ、神の子羊。」と呼んだイエス・キリストを自分の救い主として信じて、全ての罪を受け取っていただくことです。
神の子羊は、私たちの罪を身代わりに引き受けてご自分の体で罪の代価を支払ってくださいます。私たちはイエスのもとに行き、自分の罪を告白してそれを受け取っていただき、代わりにイエス・キリストの聖さを身にまとうことによって神の前に罪のない者と見ていただくのです。イエス・キリストを心に受け入れている私たちを神がご覧になる時、そこにイエス・キリストの聖さを見てくださるのです。
自分の病を自覚している人が医者を必要としているように、罪を自覚している人はイエス・キリストによる救いを必要としています。
イエスは今も「私のもとに来なさい。」と言って私たちを招いておられます。