祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201010
⑩山上の説教1 あなたは幸いです
福音書はイエスがなさった数々の奇跡を記録していますが、イエスがなさった素晴らしい業は病気を癒し、奇跡を行なうことだけではありません。イエスの語られた言葉や教えは時代を超えて人々の心をゆり動かし、人生を変える力があります。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネはイエスの弟子となる直前までガリラヤ湖で漁をしていました。夜通し漁をしても一匹も取れませんでした。ところが、イエスの言葉に従って網をおろすと、思いがけずたくさんの魚が取れました。この奇跡の前までイエスは群衆を教えておられました。岸に集まっていた人々に船からお話をなさいました。その時イエスがどんなことを教えておられたのかは記録に残っていません。
イエスは船を下りて、今度は丘に登り、集まっていた群衆に教えられました。その時の教えはマタイの福音書5章とルカの福音書6章にしっかりと記録されています。これは「山上の説教」と呼ばれて大変有名です。今も多くの人々がその言葉を引用しています。この中のどのことばがあなたにとって一番心にひびいていますか。
この教えの冒頭は「幸いなるかな」で始まり、「八福の教え」と呼ばれています。
1.心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
おごり高ぶることなく、素直で謙虚な心を持っている人は、自由競争の厳しい現代の社会では、大胆に自己主張をする人々に追い越され利用され忘れられがちです。けれども、それでその人の評価が決定しているのではありません。人間の評価は時代とともにいつも揺れ動いています。けれども、神の評価は永遠に変わりません。神はその人を幸いな人と見ておられます。ですから本当に幸いなのです。そういう人こそ、神の国にふさわしい、とイエスは言われるのです。
2.悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
悲しんでいることがなぜ幸いなのでしょう。悲しみは心の奥深くで起こります。悲しんでいる人は、心の深いところで自分のおかれた状況を感じ取っています。ですから、人からの慰めも同じ深さで感じ取ることが出来るのです。悲しいことは多かれ少なかれ誰にもやって来ます。それを嫌ったりいい加減にあしらったりしないで、しっかりと受け止め、それと同じ深さで慰めと喜びを感じ取ってください。
3.柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
柔和な人とは穏やかで優しい謙虚な人です。「そういう人がこの世界を受け継ぐ」とイエスは言われるのです。
4.義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
義に飢え渇くとは正義を求めることです。人間の正義感はしばしば人を裁く態度に陥りやすいものです。義に飢え渇くとは自分自身に正義を求める心を持つことです。他人に正義を要求することではありません。その人が満ち足りるのは自分自身に対して正義を求めているからです。自分が正義だと思っているからではありません。
5.あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
憐れみとは弱い人を思いやり、当然受けるべき仕打ちを思いとどまったり、和らげたりする心です。そういう思いやりを持つ人は自分も同じような思いやりのある扱いを受ける、とイエスは約束しておられるのです。
6.心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
心のきよい者とは、悪いことを何もしない清廉潔白な人という意味ではありません。
心を完全に明け渡していることです。心を神に明け渡している人は、神に最も近い人です。そういう人はいつも神と共に歩み、神を心で感じることが出来る人です。
7.平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
今の時代、平和をつくることは大変難しいことです。ともすると自分の利益だけを考えて相手のことを軽んじるために利害の対立が起こり、いがみ合ったり争ったりしてしまいます。誰もが自分のことだけしか考えなければ、争うしかありません。相手を思いやる心がなくては平和を造ることは出来ません。神は全ての人を平等に愛しておられます。誰にも願うことがあり、求めることがあることをイエスは知っておられます。もし、私たちが相手の願いを大切にし、その心の中を思いやろうとするなら、神の心に近づくことが出来て、神の子どもと呼ばれるにふさわしい者になれるとイエスは言われるのです。
8.義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
正しいことを行なっているのに恨まれたり苦しみを受けたりすることがあります。「なぜ正しい人や何も落ち度がないと思われている人が苦しみを受けるのか。」という疑問が、神を信じることの大きな妨げとなっています。けれども、イエスは「そういう人は幸いだ」と言われるのです。正義が曲げられ苦しめられ、不正が罰を受けないままにされているのは、この世においてだけです。全てのものはやがて過ぎ去ります。そうなら、「神の国とその義を求める」ことの方がどんなにか幸いでしょう。「その人には天の御国が保障されている」とイエスは言われるのです。
「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」とあるように、イエスの教えは他の教えとは違って大変ユニークです。(ヨハネ14章27節)
「立派な教えは多くの難しいことを私たちに求め、実行が困難であったり、大きな犠牲を伴うものであったり、長い苦しい鍛錬を伴ったりするもの」と考えがちです。
けれども、イエスの教えは違います。イエスは弟子たちにこう言われました。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節)
「互いに愛し合うこと」は誰にも出来、すぐに役立つことです。しかも「わたしがあなたがたを愛したように」と、ご自分で手本まで示されました。イエスはあなたにこのような幸いな人になってほしいと願っておられるのです。