祝福のメッセージ:2010ー12

祝福のメッセージ

福音書にあらわされたキリスト

 No.201012   

山上の説教3 あなたがたは地の塩、世の光


 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 (マタイ5章13-16節)

 イエスは教えのほとんどをたとえ話によって行なわれました。ここでも、地の塩、世の光のたとえによって、大変よく知られている大切な真理を語っておられます。

 あなた方は地の塩ですとイエスは言われます。地の塩とは何を意味するのでしょう。

 昔から食べ物の味を調えるにも、保存食の腐敗を防ぐにも食塩は大きな役割を持っていました。それでイエスは、あなた方は地の塩となるべきである、と教えられたのでしょうか。人間関係を快適で良いものにし、道徳を正しく保って、社会の腐敗を防ぐ役割を求めておられるとしたら、その力はどこから来るのでしょうか。もし道徳的に優れた生き方をすることがイエスの教えだったら、それはすでに律法学者たちが教えていることです。

 覚えておられますか。イエスが悲しんでいる人に「あなたは幸いである。」と言われたことを。イエスは私たちすべての中に限りない可能性を見てくださっているのです。

 イエスは、私たちはクリスチャンだから地の塩、世の光でなくてはいけないと言っておられるのではありません。私たちが地の塩としての役割をはたすようになることを前もって見てくださっているのです。イエスはあなたにもそれを期待しておられます。地の塩となることは自分自身がまず変えられることです。

 イエスが「塩け」と言われる私たちの品性は、イエスから来るものです。イエスが私たちの罪を取り除いてくださった故に、私たちはキリストの品性、すなわちキリストらしさを持つことが出来るのです。イエスの教えによって日々キリストらしさが身についてきます。それがイエスの言われる塩けです。ですから、塩けがなくなったら何にもなりません。

 塩に塩けがなくなることはあり得ないと思うかもしれませんが、当時の塩は海の水から取るのではなく岩塩を掘り出して使うものが多かったようです。そのために不純物が多く含まれていて、塩分が溶け出してしまうと後には塩けのない不純物だけになってしまうのです。それでは塩としてはもちろんのこと、他のどんな役にも立ちません。私たちがキリストらしさを失ったら、後に残るのは罪びとだった時のままの姿だけです。それは塩けをなくした塩のようなものです。

 イエスは十字架にかかり、ご自分の流した血によって私たちの罪を取り除いてくださいました。どうかキリストらしさという塩けを失わないでいてください。

 イエスはまた「あなた方は世の光です。」と言われました。世の光とは何でしょう。
 聖書は「イエス・キリストは全ての人を照らすまことの光である」と教えています。

 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。(ヨハネ1章9,10節)

 光は暗闇を照らして、人々に喜びや希望を与えます。イエスの教えに従っている人は希望の光になるのです。もちろん誰も完全な人間などいません。私たちの行ないの中で、良い行ないと言われるものがあるとしたら、それは神がそうさせてくださるからです。私たちが自分の力で行なうことが出来ることはほんのわずかです。

 もし、私たちがこの世を照らす光となれるとしたら、それは「まことの光」であるイエス・キリストを反射して光っているからです。どんなにわずかで小さな光でも、暗闇を打ち消すことが出来ます。ですから、イエスはこのように言われるのです。「その光を隠さないで、自信を持って、誰にも見えるように高くかかげなさい。」それは、あなた自身が称賛を受けるためではなく、あなたをそのように輝かせてくださっている神が人々から崇められるためです。

 クリスマスは暗闇の中にいる人々を照らすまことの光として世に来られた神の子、イエス・キリストの誕生をお祝いする時です。

 預言者イザヤはやみの中を歩んでいた人々に対してこう予言しています。

 「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9章1、2節)

 イスラエルの救いを待ち望んでいたシメオンという人がエルサレムにいました。彼が幼子イエスを見た時こう祈りました。

 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(ルカ2章29-32節)

 旧約聖書の預言者たちはこぞってメシア、すなわち、救い主キリストが光となってこの世の闇を明るく照らす、と預言しています。ですから、イエスご自身が光なのです。けれども、イエスは「あなた方は世の光です。」と言われました。

 神の救いの光がイエス・キリストを通して私たちの中に来たように、私たちを通して世界中に広がって行くと言われるのです。イエスは先ず私たちの心の闇を照らして救いに導いてくださいました。それによってイエスの光を心に持っている私たちが、その光を輝かせて、闇の中にいる人々を照らすようになる、とイエスは言っておられるのです。

 どうか、いつも輝いていてください。多くの人々を照らすことが出来るように、その光を高くかかげてください。あなたの輝く姿を通して天の父なる神が多くの人々から栄光をお受けになるためです。