祝福のメッセージ:2011ー01

祝福のメッセージ

福音書にあらわされたキリスト

 No.201101

 ⑬ 山上の説教4 主は律法成就のため来られた


 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。(マタイ5章17-20節)

 イエスは律法について独特の考えを持っておられます。その考えは、単にユダヤの律法についてだけではなく、全ての掟や規則に当てはまるものです。

 日本の法律は成文法と言って、法律にはっきり書いてあることだけが効力を持ちます。ですから、しばしば法の網をくぐるということが起こるのです。

 当時のユダヤの律法も、もともとは神から与えられたものとは言っても、律法学者たちが自分たちの都合の良いように解釈したり書き足したりしたもので、人間が人間のことばにして表わしたものです。ですから抜け道をつくったり不備があったりします。

 けれども、イエスは律法を文字通りではなく、神を敬う気持ちを持って、その精神を重んじることを教えておられます。そのために、律法学者から「律法をないがしろにしている」という非難を受けることがしばしばありました。

 イエスは「律法を廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われたように、律法が持っている精神を重んじてそれに従っておられたのです。なぜなら、神のおきてはもともと神が私たちのためにお与えになったもので、私たちにとって必要なものだからです。ですから、本来、律法は私たちを束縛したり苦しめたりするものではなく、私たちに本当の益を与えてくれるものです。

 規則があるとそれをいやいやぎりぎりの線で守ったり、何とかして抜け道を見つけようとしたりしがちです。それは好奇心にあふれた若者たちだけではなく、子どもから老人まで、誰もが持っている性質です。律法の中に神の愛をくみ取らない限り、それは冷たい束縛としか感じられないからです。

 律法の教えは全てが等しく大切です。大きさや重さの区別は無く、一つを守っているからと言って、それで誇れるわけではありません。また、その逆に律法の小さな一つを守ることでも、神の国の住民となれるかどうかを左右するほど大きな価値がある、とイエスは教えておられます。それが神の愛から出ているものであることを知るとき、決して重荷にはならないことが分かって来ます。イエスは言われました。

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15章12節)

 「夜遅くまで起きていてはいけませんよ」と言われても、こっそり布団をかぶって遅くまで面白い本を読んでいた経験はありませんか。親はあなたの楽しみを奪うためにそう言ったのではありません。明日も元気に楽しい一日を過ごせるようにそう言ったのです。それに気付くのは大人になってからです。

 神はもっともっと賢い方であり、あなたの本当の幸いを願っておられます。

 イエスは律法の精神を重んじることの大切さを教えておられるのです。ところが、当時の律法学者たちはその逆でした。律法の精神ではなく、律法を守っているという外見の誇りだけを重んじていたのです。今でもその名残が残っています。

 私はイスラエルに行った時驚いたことがありました。ホテルのエレベーターに安息日用というのがありました。その中で礼拝をするためなのかと思って尋ねたところ、それは「安息日には労働をしてはいけないとういう掟を守るためだ」と言うのです。ボタンを押すことも労働になるので、そのエレベーターは自動的に各階に止まるようになっているのです。神の掟はそんなことを命じておられるのでしょうか。

 けれども私たちも律法学者を批判してはおられません。律法を形式的に守ったり、自分なりに守っていると主張したり、時には潜り抜けようとしたりする傾向が全くないと言えるでしょうか。

 もしそうだとしたら、安息日に移動することを許されている距離ごとに荷物を置き「どんなに遠くへ行っても、自分の財産のあるところが自分の家だから、そこから安息日に許されている距離しか動いていない。」と理屈をこねて「安息日を守った」と主張する律法学者とあまり変わりません。安息日を守ることの意義は、週に一度体を休め、魂を養うよう心がけることです。イエスは言われました。

 もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。(マタイ5章20節)

 私たちが律法を守っていると主張出来るのは、全ての掟を神の目から見ても完全に守っていると言える時です。それは不可能です。では、律法には何の意味も無いのでしょうか。そうではありません。律法は私たちが自分の行ないによっては神の求める完全さには届かないことを自覚させるためです。律法を守りきれない私たちの身代わりにイエス・キリストが私たちの罪を償い、律法を成就してくださることに望みをおくのです。私たちはこんなすばらしい「恵みの時代」に生きているのです