祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201104
⑯ 山上の説教7 人をさばいてはいけません
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」(マタイ7章1-4節)
人をさばいてはいけません。これはイエスの教えの基本的な精神です。
裁判制度がいけないというわけではありません。この教えはあくまでも個人の行ないのことを言っておられるのです。なぜなら、人をさばくことによって一番大きなダメージを受けるのはさばいた自分自身だからです。人をさばいても決して自分の益にはなりません。
人は批判されたり断罪されたりすると、たとえ自分に非がある場合でも悪意のある反抗心を持ちやすくなります。「確かに私は間違っていたけれど、あんな言い方はない。相手だって良くなかったではないか。」と言う言葉をよく聞きます。
何か問題が起きるとそれを人のせいにして、批判したり断罪したりしたくなるものです。けれども、実際には自分の方にもっと大きな非がある場合もあります。赦し合えばすむことが、人をさばくことによってそれが悪い結果を生むことになるのです。
「それはちょうど自分の目の中の梁があるのに、兄弟の目にあるちりを見つけて、それを取りなさいと言っているようなものだ」とイエスは言われました。もちろんこれは比ゆ的なものです。実際に人の目の中に梁が入るわけがありません。自分ではそれほど大きな間違いでも気が付かないものであることを教えておられるのです。
一方、ルカの福音書にはこう書かれています。
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6章37、38節)
人をさばくことによって自分自身も同じ基準でさばかれることになると教えています。「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる。」とイエスは言われました。人を罪に定めれば自分も罪に定められることになります。人を赦すなら、自分も赦されることになるのです。
人をさばくことは人を理解しないで退けて遠ざけることです。人を遠ざければ自分も遠ざけられ、互いに心が遠ざかりますます理解し合うことが難しくなります。
その上、人をさばくことによって、心のつながりが切れると、敵対心が生まれます。そうなると、それ以上の交流を持つことが大変難しくなります。その結果として、しばしば人間関係のつながりが無くなって、互いに近くにありながら孤独であるという辛い立場に自分を置くことになるのです。
人にはそれぞれ他人には分からない事情があります。それを暴きさばくのではなく、それをおおい、受け入れて、理解をしようと努めるのです。そうすることによって、互いの心を開く道筋が出来るようになるのです。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(ペテロ第一4章8節)
人をさばくことは、たとえそれが正しいさばきだったとしても、大きな代償が伴います。まして、間違った判断から行われたさばきは取り返しのつかない傷を残します。
特に、上に立つ立場にある時はこのことを心に留めておくことがとても大切です。自分の子ども、後輩、あるいは部下に重要なことを教えようとする時、この教えを心にとめていてください。
「間違いだ」「だめだ」と決め付けると、相手の心は閉ざされてしまいます。そうなると、どんなに大切なことを伝えようとしてもそれ以上進めなくなります。その上、信頼や尊敬というもっと大切な人間関係を失うことにもなりかねません。
さばかないで、相手を受け入れ、愛と忍耐を持って相手の心を開き、時には良い点を見つけてほめてあげることによって信頼関係を築くことがその第一歩です。そうすれば、伝えたいと思っている大切なことがよりスムーズに伝わるようになります。
マタイとルカの福音書に共通して言われているのは「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる」と言う言葉です。
人をさばかないで受け入れること、罪を暴かないで愛を持ってそれを覆うことによって、相手は素直に悔い改めに導かれるのです。
人が人を正しく公平にさばくことはできません。完全な人はいないからです。国中の最高の英知と経験を集めた集団によって注意深く人をさばく最高裁判所でさえ、時には間違ったさばきによって重大な誤りを犯してしまうのです。
人をさばくことの出来る方は、イエス・キリスト、全知全能の神ただ一人です。この方はやがて私たちの全てをおさばきになります。
私たちはこの方の前に自分自身を低くし、謙虚にならなければなりません。もし、この方に私たちへの愛がなかったら、そのさばきはどんなに厳しく、耐えられないものとなることでしょう。
その時「どうか私の罪を寛大に見てください。」と願うなら、それと同じ寛大さで、人を赦す者となろうではありませんか。
「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる。」とイエスは言っておられるからです。