親愛なる祈りの家族の皆様。
あなたは敵を愛することが出来ますか。
イエスは「あなたの敵を愛しなさい。」と教えていますが、敵を愛することなど出来るのでしょうか。「それは美しい教えかもしれないが現実には敵を愛することなど不可能だ。」という方が多いのではないでしょうか。もしかしたら、誰か自分の身近な人たちが、ひどい目にあわされて悲しい思いをして苦しんでいるという方もおられるかもしれません。あるいは、あなた自身が難しい人間関係に悩み苦しんでおられるかもしれません。
イエスがこれを教えられた当時も、イエスを取り巻く大勢の人々が「同胞を愛し、敵を憎め。」と教えられていました。というのも当時のユダヤ民族はローマ帝国のカイザルによって厳しい支配を受け、重い税金や労役を課せられていました。ユダヤ人は自分たちの国、自分たちの民族を踏みにじるローマを憎んでいました。それはユダヤ人としての誇りであり、愛国心でした。
自分の国、自分の家族、同胞を迫害する者に敵対し、圧政によって民衆を苦しめる支配者への憎しみが革命の原動力になることは私たちの周りにもしばしば見られます。
けれども、イエスは人を心の底から動かすもっとすばらしい原動力を教えておられます。
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5章43-48節)
自分を愛してくれる人だけを愛し、愛するに値する人だけを愛するのはそれほど難しいことではありません。けれども、それが愛の全てではありません。愛されても愛されなくても、愛するに値する人でも、愛するに値しないと思われる人でも、まず自分から愛すべきことをイエスは教えておられるのです。イエスは「自分の敵をさえ愛しなさい」と言われました。
神は愛するに値しない私たちをご自分の子どもとして愛し、受け入れてくださいました。どんなに不完全な者も、罪びとでも、イエスに来る者はみな愛され罪を赦され受け入れられます。そのような愛を受けた私たちは汚れた罪人のままの神の子でありたくありません。不完全で汚れたまま神の国の住民にはなりたくありません。神に喜んでいただけるような愛に富んだ姿になって神とともに永遠を過ごしたいのです。神は私たちをそのような人にしてくださいます。
愛せる者を愛しても、愛する力は成長しません。神があなたの中に愛する力を育てようとなさるときは、自然に愛したくなるような人をお用いになるでしょうか。
私たちの周りには、敵とまでは言えなくても、難しい人、あまり近づきたくない人、好きになれないような人がいるかもしれませんが、彼らは私たちにとって必要な人たちです。私たちの輝きを増してくれる教師たちです。もし、そういう人たちがいなかったら、私たちは本当に愛のある人にはなれないからです。その人をいつまでもあなたの敵と思っていてはいけません。
「あんな人がいなかったら、私はどんなに幸せだろう。」と思うことがあるかもしれません。もしかしたらその人は、あなたのために神が備えてくださった人かもしれません。神が私たちの周りからいやな人を一人残らず取り除き、好ましい完全な人だけになさるとしたら、周りには誰もいなくなってしまうでしょう。私たち自身も誰かにとっていやな人かもしれません。
私たちが模範とすべき聖書の中の人物にも、敵と言える人がつきまとっていました。
モーセはエジプトの王パロに困らされていました。それによって、彼は一層神に頼ることを学び、ユダヤ民族が荒野をさまよった40年間、彼らを統率する力を得ました。エリヤはイゼベルに命を狙われていました。エステルはハマンに苦しめられました。ダビデもサウルに命を狙われ続けていました。あなたを鍛えて素晴らしい人格にしてくれる人があなたにも必要です。
では、どうしたら私たちは自分の敵を愛せるようになれるのでしょう。
私たちが他の人と接して好感を持ったり反感を抱いたりするのは、単に言葉によるだけではありません。会話とその場の雰囲気によって言葉以上のものを伝えたり受け取ったりします。その交わりを通して受ける印象全体がその人を楽しくさせたり喜ばせたり勇気や希望を与えたりするのです。「あなたの敵を愛しなさい。」と言われたイエスは「迫害する者のために祈りなさい。」とも教えておられます。「敵をも愛する力を与えてください」という祈りの心で接するなら、言葉では伝わらないものが相手の心に伝わります。そうすれば、その人はもはやあなたにとって敵とは思えなくなります。祈りがそれを可能にしてくれるのです。
人には誰の心にも入り込めない領域があります。ちょうど車どうしのように、近づき過ぎると衝突し事故になります。神だけがその領域に自由にお入りになれます。ですから、近づけない領域や自分では処理できない領域には無理に入ろうとしないで、すべて神にお任せして神に入っていただくのです。誰でも他の人には分からない状況や事情を持っています。それを無視して自分の思いだけで突き進むことのないよう、神に働いていただく祈りの領域を空けておきましょう。あなたにとって不可解な事情はそのままにして、イエスが十字架におかかりになるほどに愛して救おうとしておられるその人の魂を愛せる心を与えていただきましょう。
神の願いはあなたの敵を滅ぼすことではありません。周りの全ての人とのかかわりを通してあなたの品性を磨きあげ、神の子として世に輝かせることです。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛