祈りの家族への手紙:2011-07

 親愛なる祈りの家族の皆様。

 暑い毎日ですが元気に頑張っておられますか。

 人はどんなに頑張っても、本当の完全さには到達出来ません。けれども、神はアブラハムに「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」と言われました。(創世記17章1節)

 神の前に全き者であることなど人に出来るのでしょうか。

 むしろ、私たちは、「今日もまた失敗をしました。あなたの教えにそむいてしまいました。どうかお赦しください。」と祈ることが多いのです。けれども、そういう私たちを主は赦し、何度でも完全を目指すチャンスを与えてくださいます。

 ですから、どうかあきらめないでください。どんなに失敗を重ねても、主は赦してくださいます。ただ、罪を告白して赦しを求め、再び完全さを目指すことをやめないでください。

 主が求めておられる完全さは私たちが考える100点満点の完全さとは違うからです。

 では「全き者であれ。」とはどういう意味でしょう。

 聖書はしばしば、ある特定の基準を満たしている人を完全な人、正しい人、神に喜ばれる人と呼んでいます。必ずしもその人が、神と同じように「あらゆる点で何の落ち度もない完璧な人であった」という意味ではありません。この世において、人は神と同じようにはなれません。

 「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」と創世記6章9節に書かれています。

 ヨブについては、「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(ヨブ記1章1節)とあります。

 ダビデについては、神はこう言われました。
 主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。 (サムエル記上13章14節)

この3人に共通していることは、神とともに歩む、神を恐れる、神の心にかなうという点です。ダビデは何の罪もない完璧な人だったわけではありません。それでも、聖書は、「ダビデは神の心にかなった人である。」と言っています。人は目に見える外側のことで人を判断しますが、神は心の内側をご覧になります。(サムエル記上16章7節)

 詩篇119篇においてダビデは神が求めておられる幸いについてこのように歌っています。

 幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。(1節)
 幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。(2節)
 
まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。(3節)
 
私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。(10節)

 この詩篇119篇をうたったダビデ王は「彼はわたしの心にかなった者」と言われたほど神に愛された人でしたが、罪を犯し、国と民とを大きな危険にさらしてしまいました。けれども彼が素直にその罪を認め、悔い改めて謙虚に神に従うようになった時、神は罪を赦し彼を祝福して、イスラエルの国を最も繁栄させた王として用いてくださいました。

 私たちは今、神の前に完全な歩みをしたいと願っていてもそれを実現することが難しい罪の性質を持ち、罪の世界に生きています。

 パウロも告白しているように、善を行ないたいと切に願っているのに、しばしば願っていない悪を行ってしまいます。(ローマ人への手紙7章19節)

 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。(ピリピ3章12節)

 けれども、神はあなたの外側の姿ではなく、心を見てくださいます。

 たとえ、失敗したり、罪の力の大きさに負けて弱さを感じたりすることがあったとしても、日々神の助けと赦しを求めつつ、あきらめないで神の完全さを目指して生き続けてください。神の国においては、私たちの努力をくじいたり、願っている善を行なえないようにしている罪の力は存在しません。神の喜ばれる完全な姿を目ざす心はそのまま神に届くのです。ですから、神が私たちに求めておられる「全き歩み」を今のうちからあきらめたりしないでください。

 私たちがまだ完成してはいないことを神はご存知です。ひたすら完成を目指しているのです。自分自身のことを考えても、多くの歳を重ねた今もなお、神が喜ばれる完全さとは程遠い弱さを感じます。ただ主の助けによって完全を目指して希望を持ち続けているのです。

 天の父なる神は私たちに無限の愛を注ぎ、ご自分の完全な姿を示してくださいました。その愛によって私たちに神の姿を目指したいという願いを起こさせてくださいます。それによって、私たちの霊を強め、全き者、神の姿に到達し得る者として期待してくださっているのです。

 ですから、今はまだ不完全であっても、「私たちはすでに神の子どもである。」と宣言することが出来るのです。

 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(ヨハネ第一の手紙3章2節)

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛