祈りの家族への手紙:2011-08

 親愛なる祈りの家族の皆様。

 あなたはどこかへ逃げ出したいと思ったことはありませんか。
 夏の暑さからのがれて、どこか涼しいところへ逃げ出したいと思っておられるでしょうか。恐ろしい放射能の影響からのがれて心配のない安全なところへ逃げて行きたい、という方もおられます。本当にお気の毒に思います。いつまでも続く不況からのがれて、安心して働けて、心配なく生活出来るところに逃げ出したいと思う方も大勢おられるのではないでしょうか。
 あるいは、全く個人的な理由で、誰も知らないどこかへのがれてひっそりと暮らしたい、という方もおられるかもしれません。今の状況から逃げ出したいと思うことは誰にもあります。
 けれども、たとえ逃げ出せても、そこにも、違った困難や問題が待っていて、そこからものがれたいと思うようになります。私たちは私たち自身からは逃げられないのです。イエス
は、その状態の中にいる私たちを変えくださるのです。
 ある中風を患っていた人がいました。彼は自分で自分の体を自由に動かすことが出来ずいつもベッドに寝かされて家族や友達の世話にならなければなりませんでした。何とかしてこんな状態からのがれ、自分で自由に動きたいと思っていたに違いありません。友人たちがイエスのうわさを聞き、中風の人をベッドのままイエスのところに連れて行くことにしました。

 人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9章2節)

 そこに集まっていた誰もが、イエスは初めから中風を癒してくださるものと思っていました。私たちは何かの問題からのがれたいと思うとき、その問題だけに目を奪われてしまいがちです。それさえ解決すれば全てがうまくいくと錯覚してしまうのです。しかし、実際には中風を患っていなくても問題はたくさんあります。
 イエスは盲人を癒してくださいました。目が見えることは素晴らしいことです。けれども、目が見えさえすれば全ての問題はなくなるのでしょうか。目が見えていてもたくさんの問題や悩みを抱えて苦しんでいる方は大勢おられます。
 当面の問題が解決するだけで全ての困難からのがれられると思ってはなりません。私たちを苦しめている根本的な問題は私たちの心の中にあるからです。

 ある人が交通事故で両足に重傷を負い、入院しました。自由に歩けなくなったことをひどく恨んで嘆いていました。病室は二人部屋で、窓際にもう一人の人が入院していました。動けないので、窓の外を見たくても見ることが出来なかった彼は、窓際の人に外の様子を尋ねました。その人は外の様子がありありと目の前に見えてくるように説明してくれました。
 「いい天気で、空が青く木々の緑もとても美しい。」、「パレードが行きます。きれいな服を着た人々が街を行進しています。」それを聞くと、彼も楽しくなりました。こうして、毎日外の様子を説明してもらっていましたが、ある日、突然彼がいなくなりました。看護婦に尋ねると、「昨晩、急に病状が悪化して集中治療室で手当てを受けましたが、気の毒に今朝お亡くなりになりました。」彼もとても残念に思いました。「看護婦さん、もし出来たら私を彼のベッドに移してくれませんか。」看護婦は快く、彼のベッドを窓際に移してくれました。彼は外の美しい景色を期待して、ベッドから頭をもたげて窓の外を見ましが、隣の建物の壁が見えるだけでした。「看護婦さん、あの方は毎日窓の外の美しい景色を私に話してくれました。でも何も見えないじゃないですか。」すると、看護婦が言いました。「ご存知なかったのですか。あの方は目が不自由で、何も見えないのです。ただ美しい景色を想像して、話してくれたんですよ。」
 彼の心は障害をのりこえて自由でした。あなたはいかがですか。私たちを救い出して自由にしてくださるために、イエスは世に来られました。どのような状態の中にいても、その恵みを奪われてはなりません。

 もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
(ヨハネ8章36節)

 イエスは中風の人に「あなたの病気は癒された。」とは言わず、「あなたの罪は赦された。」と言われました。その人にとって、罪が赦されていることを自覚することが第一だったのです。

 神に祈る時、順序を間違えてはいけません。何よりも神との関係が大切です。そうすれば、どんなことでも願うことが出来ます。神との関係をしっかりと築くことをないがしろにして、ただ願い事だけを申し上げるのでは、いったい誰に願っているのかがはっきりしなくなります。神としっかり向き合い、告白すべき罪を告白し、その赦しを確信して、神との関係がしっかりと築かれているなら、どんな祈りでも聞かれるのです。

 イエスは私たちの全ての問題の根本である罪を引き受けてくださり、私たちをそこからのがれさせて自由にしてくださいます。どんな罪でも赦してくださいます。すでに赦してくださっているのです。それを感謝して受け取るかどうかは、私たちの決断にゆだねられています。

 私たちはしばしば、失敗をします。悪いことをしてしまって悔みます。それを完全に忘れることは出来ません。すると、いつまでも心の重荷に悩まされることになります。それが無かったことに出来たらどんなに良いだろうと思います。「あなたの罪は赦された。」と言われた時、イエスは私たちの罪を赦してくださるだけでなく、それを取り除いて無かったことにしてくださるのです。重くのしかかる罪の呵責や後悔の念から解放されて自由になるのです。
 「あなたの罪は赦された。」のです。もう後を振り向いて、くよくよ思い悩むことはありません。罪の与えるどのような影響をも払拭して、自由になり、負い目も誘惑もなく、神の愛と恵みを安心して受けとめてください。イエスが自由を与えてくださるのは、私たちが神とともに歩む人生を、何の恐れも心配も無く大いに喜ぶことが出来るためです。
 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 
日本主事 桜井 剛