祈りの家族への手紙:2011-09

 
 親愛なる祈りの家族の皆様。

 祈りが答えられた時のことを覚えておられますか。

 世界中どこへ行っても祈る人々を見ることが出来ます。どんな言葉を話すどのような民族でも、暑い国でも寒い国でも、人々に共通していることは、誰でも祈るということです。

 古くから日本でよく見られる習慣に、大きな物や、変わった物、はっきりとは分からないが優れていると思われる物に対して人々は崇拝の心を持って祈ります。困ったことや、恐ろしいこと、いやなことから逃れるためにも祈り、儀式や習慣として、理解できない言葉を繰り返す祈りもあり、厳かな気持ちになって、心が安らかになるための祈りもあります。故意に興奮した状態をつくり、気持ちを高ぶらせて、普通では出来ないようなことをさせる祈りを見たことがあります。私たちはそういう祈りはしません。では正しい祈りはどのような祈りでしょう。

 聖書は祈りの意味を深く掘り下げて、本質に迫る正しい祈りを具体的に教えてくれています。主イエスも「このように祈りなさい。」と弟子たちに主の祈りを教えられました。

 主の祈りの冒頭にあるよう、私たちが祈るべき方は万物の創造者、私たちをお造りになった天の父なる神です。(マタイ6章9節)祈りは優しい天のお父さんであると同時に、全知全能の神への語りかけです。ですから、私たちの心を集中して神に向けるのです。

 新約聖書、ヤコブの手紙4章8節に、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」とあるからです。また、「主の御前でへりくだりなさい。」(10節)とも書かれています。全知全能の偉大な方の前に出るのですから、謙虚にへりくだって自分の心を神の御心に近づけるのです。すると、神も私たちの方に近づいてくださいます。

 祈りは初めから願い事を並べ立てることではありません。神を崇め、神に近づき、神の御心を尋ねることから始まります。

 神の御子であられるイエスご自身でさえ、十字架の死が迫っていた前夜、ゲッセマネの園でこう祈られました。

 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26章39節)

 「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」(42節)

 私たちはこの世においては地上の法則に支配されて生活しています。その中ではいろいろな困難に直面し、悩んだり、心配したりします。耐えられないと思うような大きな問題を抱えてしまうこともあります。自分では予期しなかった出来事にみまわれることもあります。『予想を遥かにこえた災害だったため・・・・』という言葉がしばしば聞かれました。しかし、たとえ人間にとっては予想を超えた出来事でも、神は全てを承知しておられます。神には不可能なことや予想外のことは何もありません。ですから、神がご存じのない事はなく、お出来にならないことも何一つありません。それどころか、私たちのために奇跡を行なって困難の中から救い出すことさえお出来になるのです。

 C.S.ルイスは「奇跡」という著書の中で、「私たちには自然の法則に違反すると思われるようなことでも、神にとっては全てが定められた法則に従った出来事である。」と言っています。

 しかし、奇跡が起こるかどうかよりも、私たちがそれをどのように受け止めて、人生にどのような変化をもたらせるかが重要です。なぜなら、私たちはすでに奇跡と呼ぶべき多くの恵みに囲まれて生きているからです。今、こうして生かされていること自体が奇跡と言うべきです。私たちの心が神に向けられていないと、これらの恵みに対して感謝することすら忘れてしまいます。祈りが聞かれるためにはまず、私たちの心が神に向けられていなければなりません。

 私たちの心が神に向けられているなら、次に何でも求めることが出来ます。求めるとは私たちの願いを神に申し上げることです。もちろん、神はあなたの願いをすでにご存じです。けれども、それを神に向かって申し上げることは、私たちの信仰が神だけに向けられ、神にのみ頼っていることを告白することです。イエスはヨハネ15章7節でこう言っておられます。

 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

 私たちの心が神に向けられた時、神がそれを無視なさることはありません。神は私たちとの交流を何よりも重んじておられるからです。私たちを創造してくださっただけでなく、その独り子の命によって私たちを罪から救い出してくださいました。神はそれほどまで私たちを愛し、私たちとの交わりを求めておられます。ですから、私たちの祈りは聞かれるのです。病気の癒しでも、問題の解決でも、人間関係の修復でも、経済的な困難でも、祈りは聞かれるのです。

 私たちが困難に直面するのにはそれなりの理由があります。けれども、私たちにはその理由が分かりません。ですから、その祈りの答えがどのようにやって来るのかも分かりません。しばしば祈りの答えを受け取る前にあきらめたり、神の御前を去ってしまいます。また、自分勝手な答えを求めたりもします。祈りの答えを受け取るのはちょうどキャッチボールのようです。どんなボールが帰って来てもいいように構えているのです。神に向かって投げた祈りのボールがどう帰って来てもそれを見落とすことのないようしっかりと構えて受けとめてください。

 私が皆さんにさしあげる手紙が時々、「受取人不明」と書かれて帰って来ることがあります。おそらく、どこかに引っ越しなさって住所が変わり、もうそこにはおられないためでしょう。せっかくさしあげた手紙が本人の手に届かずに戻って来てしまうのはとても寂しいものです。神が特別な愛を込めて送ってくださる祈りの答えです。どんな答えであったとしても、待ち構えていて、しっかりと受け取ってください。それが神からあなたへの最高の贈り物だからです。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛