祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201110
イエスの力ある業 ③ ペテロのしゅうとめの癒し
それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8章14-17節)
イエスは引き続きカペナウムにとどまり、ペテロの実家に立ち寄られました。
そこにはペテロのしゅうとめがおり、熱病で床に着いていました。イエスはそれをご覧になりお癒しになりました。彼女は元気になり一行をもてなしました。みんなが元気に夕食の時を楽しく過ごしたことでしょう。イエスと弟子たちの一行も一日の疲れを癒すことが出来るところでした。
しかしそうはいきませんでした。イエスがそこにおられることを聞きつけた群衆が大勢そこに集まって来たのです。その中には病人もおり、悪い霊に取り付かれた人たちも連れてこられました。イエスは聖書のことばによって悪い霊を追い出してそのような人々を癒して正常になさいました。また、病気の人たちをみなお直しになりました。
これと同じ記事はマルコ1章29-31節とルカ4章38-39節にも記録されていますが、ユダヤ人を対象にして福音書を書いたマタイだけがイザヤ書の預言を引用しています。
そこに集まっていたユダヤ人たちは旧約聖書のイザヤ書に書かれている預言のことば通りの事が起きていることを感じ取っていたのです。
イザヤ書にはこう書かれています。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53章4、5節)
集まってきた大勢の群衆の中の病人たちはイエスに直していただいてどんなに喜んだことでしょう。どんなにイエスに感謝したことでしょう。しかし、イザヤの預言によれば、行なわれた癒しと奇跡の業は、病とその原因の全てをイエスがご自分の上に負うことだったのです。
やがて、それは現実のこととなります。イエスが十字架への道を進まれる時、イザヤの預言がますますイエスの境遇にぴったりと一致するようになります。
イエスによる数々の奇跡を目撃したユダヤ人たちは、イエスが総督ピラトによる裁判を受ける時には祭司たちや律法学者たちに惑わされて、イエスを十字架にかけることに同意し「十字架につけろ」「十字架につけろ」(マタイ27章、マルコ15章、ルカ23章など)と大声で叫ぶようになるのです。それは誰も想像しなかったことでした。けれども、イザヤは700年以上も前にそれを預言していました。
イエスは彼らの病気や痛みをご自分の身に負ってくださったのに、人々は「イエスは神に罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと思った」(イザヤ53章4節)のです。しかし、イザヤはこう続けています。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53章5節)
イエスは私たちの病気や痛みをご自分の身に負ってくださっただけでなく、私たちの罪をもご自分のものとして負ってくださったのです。私たちの代わりに罰を受けて十字架の刑を受けてくださいました。
イエスの十字架の苦しみは、私たちの病や苦しみを担うためであり、イエスが命を投げ出されたのは、私たちの罪の代価を支払うためだったのです。
イエスが大勢の人々を癒し、奇跡を行なわれたので、人々の注目を集め有名になりました。そのために、祭司たちや旧約聖書の律法をユダヤ人に教える学者たちは自分たちの地位が危うくなることに危機感を覚え、イエスを亡き者にしようと企てるようになるのです。こうして、指導者によって扇動されたユダヤ人たちはイエスを十字架にかけることに賛同するようになったのです。このようにしてイザヤの預言は成就して行きました。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。(イザヤ53章10節)
飼う者の無い羊のようにさまよって、弱りはて傷ついて病んでいる人々を哀れんで、癒し、助け、力づけてくださったイエスをどうして十字架につけることが出来たのでしょう。それが神の救いのご計画だったからです。このご計画の中に、あなたも私も含まれています。何という恵みでしょう。