親愛なる祈りの家族の皆様。
今からもう何年も前のことですが、クリスマスの時期にしばしばエルサレムを訪れました。聖地観光のためではありません。イエスが十字架にかかられたカルバリーのふもとで、皆さんから送られて来た祈りのリクエストのために祈るためでした。
祈りのリクエストを読んでいると、それを書いたひとりひとりの心の痛みが伝わってきます。病気は人の体から体力だけでなく気力も奪い、病んでいる人を不安のどん底におとしいれます。人間関係のもつれは心に大きな傷と痛みを与え、時には凍りつくような寂しさをもたらします。経済的な困難は時には人をどうしようもない絶望のどん底に落とし、大きな怒りをもたらして、ますます状況を悪化させます。それらの原因がその人自身から出たものであろうと他人によるものであろうとも、人が苦しんでいるのを感じる時、私の心も痛むのです。
祈りのリクエストは今持っている自分の痛みを他の人にも知ってもらい、それを一緒に負って祈ってもらうためです。イエスはその苦しみを一番わかってくださる方です。その原因が何であろうとも先ず苦しんでいる人を助けてくださるのです。
それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。(マタイ9章35節)
それだけではありません。苦しみをもたらすもとになっている罪を取り除くために十字架にかかって命を投げ出してくださいました。
十字架が人を救うのではありません。イエスが私たちの罪を代わりに負って十字架の上で死んでくださったことによって、私たちを罪の力から解放してくださったので、私たちは救われたのです。私はイエスが私たちを救うためにかかられた十字架のふもとに、苦しみと痛みから解放されたいという切なる願いを表わしている祈りのリクエストを置いて祈りたいと思ったのです。
イスラエルに行くたびに感じたのは、貧富の差の大きさから来る対立と憎しみでした。一方では文化的で大きな家に住み快適な生活を楽しんでいる人々がいるかと思えば、他方では、すぐ隣の地域で戦後の私たちが住んでいたような小さな家に大勢の家族で住んでいるという状態でした。どこか知らない遠い国の事ならいざ知らず、彼らはいつもそれを見て暮らしているのです。
その貧富の差だけが人を苦しめているのではありません。貧しい人々を憐れまないで、彼らを怠け者と決めつけて見下げたり虐げたりする高ぶった心も、豊かに暮らしている人々をうらやみ憎む心も、同様にその人を苦しめる結果になっているのです。
私の子ども時代も戦後の混乱期で、どん底のような貧しさを経験しましたが、その貧しさが不幸だとは思いませんでした。それなりにとても楽しいこともたくさんありました。時には今思い起こしても心の温まるような経験もしました。みんなが同じように貧しかったからです。私よりも数倍も苦しい経験の中から立ち上がり、それをばねにして素晴らしい人生を築いた人も大勢知っています。貧しくても苦しくても人は互いに支え合えば生きていけるのです。
確かに人生には辛いことも悲しいこともあります。とても耐えられないと思えるような苦しみを味わうこともあります。けれども、苦しみも喜びも全ては自分の人生に与えられたものです。そこから逃だして他人の人生を生きることは出来ません。それを辛いと思い悲しいと感じ苦しいと思うのは、自分の状態を他人と比べてうらやむからです。どんなに辛くてもそれを自分のものとして受けとめるなら、困難を克服する力として役立て真剣に神の癒しと助けを求めて神に頼ることが学べるはずですが、実際にはそれが難しいのです。出来ないことが多いのです。私たちの心の中にある罪の性質は私たちがやりたいと思っている良いことを行なわせず、やりたくないと思っている悪を行なわせて人を苦しめているのです。それが私たちの問題の本当の原因です。
パウロは言いました。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。(ローマ人への手紙7章19、20節)
人を本当に苦しめているのは貧困でも病気でもありません。人の心に根強く住みついている罪です。そこからねたみが生じ、慾が生まれ、憎しみがわき、怒りをもたらし、争いを起こし、傷つき痛み苦しむのです。罪が罪を産むことは何とかして止めなければならないと思っても、私たちの力ではどうしても出来ません。けれども、神の子イエスが私たちに変わってそれを行なってくださいます。自分の力では抜け出せない悪循環から私たちを救うことは神の願いだからです。
私たちの痛みや苦しみを全て、十字架のもとに置いて、神にゆだね切ることが出来たらどんなに心が軽くなり自由になれることでしょう。問題が多少残っていてもいいのです。すぐに全てが解決しなくてもいいのです。たとえ全ての問題が今解決したとしても、またすぐに次の問題がやって来るでしょう。ですから、どうか今ある問題を祈りのリクエストに書いてお送りください。私は今すぐにはエルサレムへは行けませんが、あなたがお送りくださる祈りのリクエストのためにあなたと一緒に祈ることは出来ます。今まで祈りのリクエストを書いたことがない方も今回はどうかお書きください。どんなことでも、今あなたの心にかかること、あなたを苦しめていることを何でも書いてお送りください。神と私以外には誰もそれを知ることはありません。あなたと一緒に私もその重荷を負いたいのです。そして、それをイエスの十字架のもとにおろしましょう。
苦しみを負って毎日を過ごすには、人生はあまりにも短かすぎます。喜びと感謝にあふれて過ごさなくては、もったいないではありませんか。惜しみなく注がれている神の愛を少しも無駄にしないために、あなたの重荷を全て出し切って平安を得てください。イエスは言われました。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11章:28節)
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛