祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201202
イエスのたとえ話 ② 毒麦のたとえ
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。
「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
(マタイ13章24-30節)
毒麦のたとえ話は、マタイの福音書だけに書かれています。
畑には良い麦を蒔いておいたはずなのに、芽が出て成長し始めるとそこには毒麦が混じっていて、良い麦と一緒に成長しているではありませんか。
良い動機から良い計画を立てて良い働きを始めても、悪い結果をもたらし、悪いものが混じり込んでしまうということは人間のやることの中ではよくあることです。
このたとえ話についてイエスは弟子たちの質問に答えてその意味を次のように説明なさいました。
イエスは答えてこう言われた。
「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13章37-43節)
宇宙の全てのものを創造なさった神はご自分が創造なさったこの世界に、良いものだけを置かれました。けれども、悪いものがそこに現われてきました。それは人間が神の御心にそむくことによって罪に支配されるようになったからです。
多くの人が「神が良い方ならなぜこの世の中には悪いことが起こるのか。悪いものをも神は創造なさったのか」と言います。自分は神よりも賢いと思っている人に対しては満足させる答えはありません。
「人間に完全な自由意思を持たせるためには神に反逆して罪を犯すことも自由で、その可能性をも認めなければならなかったからである」と論じる人もいます。
確かに理屈は通っていますが、それだけで終わるのでは解決がありません。
「良いものがより良いものであるためには悪の存在が必要だ」と言う人もいます。
しかし、それだけでは未来に希望が持てません。
いずれにしても神は今ある現実の全てを承知しておられ、それに対する決着の仕方をも決めておられるのです。それはこのたとえ話の中で分かります。
イエスのたとえ話の中で、毒麦を早いうちに抜き取ってしまわないで、最終的な収穫の時まで良い麦と毒麦を一緒に成長するままにしておかれた理由はこうでした。
毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。
今の時代、私たちの周りには悪いことと良いこととがはっきりと区別できなくなることがたくさん起こります。社会が複雑になって来るとますますその区別が難しくなってきます。良いと思ってしたことが悪い結果をもたらすことがしばしば起こってしまうのです。
不当に苦しめられている民衆を救うために悪い指導者を懲らしめようとして始めた戦争がますます民衆を苦しめる結果に終わることが歴史上しばしば起こりました。
ある島で作物を荒らし病気を媒介するネズミを駆除するために猫をたくさん持ち込んだ結果、生態系が完全に壊わされて他の害虫が大量に発生したために被害をより一層大きくしたという例があります。
自然界の全てを完全には知り尽くしていない私たちはしばしばそのような間違いを起こしてしまうのです。
私たち自身も、完璧な正義だけを求める神に今お会いしたら、イエスの憐れみなくしては抜き取られて焼かれても何の文句も言えない存在です。
けれども、世界の収穫の時、イエス・キリストが再臨されて、全てのことに正しい判断を下される最後の審判の時が来ます。その時、全てが明らかになるのです。
毒麦は焼かれ、良い麦は神の国の蔵に納められます。
裁きは神のなさることです。私たちに求められていることは、悪を避けて良いことを忠実に行なってイエスの再臨に備えることです。