祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201203
十字架への道 ① エルサレムのベテスダ池の畔
その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。(ヨハネ5章1-9節)
イエスは郷里ナザレを離れてエルサレムに上られました。ユダヤ人の祭りが行なわれたからです。エルサレムの町は城壁で囲まれています。城壁にはいくつかの門があって門を通って中へ入ります。その一つ、羊の門の近くにベテスダと呼ばれる池がありました。今もその池は残っていますが、水が少なくなってしまい、かなり低いところまで階段を下りていかなければ水辺にたどりつけません。けれども、昔は地表にあって池も大きく、周りは広い回廊で囲まれていました。そこへ大勢の病人が集っていました。「その池の水が動いた時、最初に水に入った人はどんな病気でも治る」という言い伝えがあったからです。大勢の病人がその池の周りに来てその時を待っていました。イエスがそこをお通りになり、38年もの間病気でそこに伏せっている男をご覧になり「よくなりたいか。」と声をおかけになりました。
病人を訪問した時、私たちが最初にかける声は「いかがですか」「大丈夫ですか」と言う呼びかけです。けれども、イエスは「よくなりたいか。」と言われました。
38年も患っていたのです。よくなりたいのは当たり前です。けれども、その男は「はい、治りたいです。」とは答えませんでした。言い訳をし始めたのです。
「池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
私たちも同じような言い訳をしないでしょうか。
「私の状態は他の人とは違って特別にひどいのです。」「どんなに頑張ってみてもだめなんです。」「私には悪いことばかりが重なってどうにもなりません。」
38年も病気に悩まされ続けているとそういう気持ちになります。しかし、大切なこと、一番の望みを忘れてはなりません。
この人の場合は病気が治ってよくなることでした。イエスはそれを思い出させるために「よくなりたいか。」と言われたのです。
「水が良く見えるところへ行って、注意して見ていなさい。」とか「今度水が動いた時には、私が中へ入れてあげましょう。」とはおっしゃいませんでした。水が動くことも、水に入ることもどうでもよいのです。大切なことは、神の御業が行なわれることです。ですから、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われました。すると、この男は元気になって飛び上がるように起きあがり歩き出しました。
神はあなたの全ての事情をご存知です。ですから、あなたが祈る時、あなたが願っておられる核心となることを求めてください。あなたが本当は何を願っておられるのかを思い起こしてください。イエスは思いがけない方法で、それを行なってくださいます。なぜなら、あなたの願いが聞かれることには、必ず大きな意味がともなうからです。神のご計画には全てのことがつながりを持っていて、一つの出来事がそのことだけでは終わらないからです。
38年間病気を患っていた男の病気が癒された時、それはエルサレム中を揺るがすような大事件へと発展して行きました。なぜなら、その日は安息日だったからです。ユダヤ人たちの律法では安息日にはどんな労働もしてはいけないことになっていました。病気を治すことも、床上げをすることも、安息日にしてはいけないと言われていたのです。
しかし、この出来事は安息日論争だけでは終わりませんでした。神の子であられるイエスがこの世に来られた目的がユダヤ人たちにはっきりと告げられたからです。
イエスはご自分が神から遣わされた神ご自身であることを公にされました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5章19、24節)
これは旧約聖書の律法の管理者と自称していたユダヤ人たちの間に大きな波紋を投じることになりました。確かにユダヤ人たちはメシヤ(救い主)の到来を待ち望んでいました。けれども、貧しい民衆の友であられたイエスの姿は、ユダヤ人たちのメシヤ像とは大きく違っていたからです。彼らは自分勝手に、自分たちの方法でメシヤ像を作り上げていたのです。
あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は、わたしは天から下って来た。と言うのか。(ヨハネ6章42節)
こうして、イエスを無きものにしようとしたユダヤ人のたくらみによってイエスは十字架への道を進むことになります。ベテスダ池の畔で38年水の動くのを待っていた病気の男は、自分がそのきっかけとなるとは夢にも思わなかったことでしょう。
神は誰でもお用いになります。あなたがいま置かれている状況も神のご計画が行なわれるきっかけかも知れません。ですから、いつも全力で神と向き合ってください。