祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201205
十字架への道③ わたしがいのちのパンです
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6章32-35節)
モーセに率いられてエジプトを出たイスラエル民族は40年間荒野の旅をしました。
ヤコブ(イスラエル)の子孫はエジプトに寄留している間に数を増し、エジプトを脅かすほどの勢力となったからです。その脅威を阻止しようとしたパロ王はイスラエル民族を奴隷として酷使しました。彼らは奴隷として、今に残るエジプトの様々な建造物の建設にあたったのです。
しかし、イスラエル民族は奴隷の状態から解放されたいと願っていました。その時、モーセが現われて、エジプト王パロと対決して民族解放が始まりました。
モーセによって表わされた神の力に屈服したパロは、いやいやイスラエル民族を去らせることを承諾しました。
エジプトの奴隷生活から解放されたイスラエル民族は約束の地カナン(パレスチナ)に向かいました。その数はすでに200万人ほどに増えていました。
イスラエル民族はモーセに率いられて砂漠を通って旅を続けましたが、途中で食べ物や飲み水に困りました。その時、毎朝不思議な方法で与えられたのがマナでした。カナンへの旅の40年間、それが彼らの主食でした。彼らはそれを「天からのパン」と呼びその恵みを代々に伝えましたが、エジプトを出た人々のほとんどは荒野で死んで葬られ、約束の地に入ったのは新しい世代のイスラエル民族でした。
「天からのパン」と呼ばれたマナも彼らを永遠に生かすものではありませんでした。
イエスの話を聞くためにいつも多くの人々が集っていました。彼らは一日中、時には何日も家を離れてイエスについて行きました。ある時、群衆がお腹を空かしているのをご覧になったイエスは、少年が持っていたわずかのパンと魚によって、何千人もの人々に余るほどのパンを食べさせました。パンの奇跡です。人々はますますイエスを慕ってついてくるようになりましたが、イエスは彼らにこう言われました。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。(ヨハネ6章27節)
イエスの言われる「天からのパン」は肉体の糧であるパンとは違いました。
イエスはバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。その後、40日間の祈りのために荒野で過ごされました。40日が終わり空腹を覚えられた時、サタンが来てこう言いました。
「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4章3、4節)
人を本当に生かす「いのちのパン」は神から直接に与えられる神のことばです。
「神のことば」とはイエスご自身のことです。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1章1-4節)
初めから神と共におられ、神ご自身であられたイエスこそ、神から与えられ、人を永遠に生かすことのできる「いのちのパン」です。
イエスは言われました。「わたしがいのちのパンです。」
けれども、それは神の子イエス・キリストが神を離れて人とともに住み、人類の罪を贖うために罪の代価として十字架でいのちを投げ出すことを意味していました。
私たちがイエス・キリストの十字架の死によって罪を赦され、いのちを受け継ぐ者となるためです。
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
私たちは地上で生きていくためには食糧としてのパンが必要です。食糧がなくては生きられません。けれども、人間は食糧が十分にあるというだけでは本当に生きているとは言えません。そこが他の動物と本質的に違うところです。
人は神に似た者として造られ、神を慕い、神に近づくことを切望しているのです。ですから、神から与えられる「天からのパン」が必要なのです。
罪を贖うため十字架でいのちをささげ、復活して永遠のいのちを約束されたイエスこそ、私たちに永遠のいのちを与えることの出来る「天からのパン」です。
私たちはこのイエスを心にいただくことによって、本当に生きる者となるのです。
教会では定期的に聖餐式を行ない、キリストの血と体を象徴するパンとブドウ液をいただきます。これによって、私たちはイエス・キリストが私たちのいのちのパンであることを繰り返して確認するのです。
私たちにいのちを与えるために十字架への道を歩まれたイエス・キリストという「天からのパン」を日々求めてまいりましょう。