親愛なる祈りの家族の皆様。
今から110年ほど前、1903年に一人の青年が日光の華厳の滝で投身自殺をしました。若干18歳の旧制一高の学生、藤村操でした。
彼が自殺した理由は色々と説があり明らかではありませんが、彼が滝の畔の木の幹に書き残した「巌頭之感」が遺書として、今も残っています。その書き出しはこうなっています。
悠々(ゆうゆう)たる哉天壤(てんじょう)、遼々(りょうりょう)たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす・・・萬有の眞相は唯だ一言にして悉す(つくす)、曰く、「不可解」・・・
「天地宇宙の偉大さや、時間の流れの大きさをこの小さな体によって量ろうとしたが、結局は、ただ不可解としか言いようがなかった。」こう結論して、彼は死を選んだのです。
天地宇宙の不思議を量ることは悪いことではありません。歴史の流れの厳粛さに心を奪われて、これを研究することも素晴らしいことです。けれども、自分自身の存在を大切にし、生かされていることに感謝し、与えられた命を注意深く扱うことを忘れてはなりません。
命は特別なものです。広大な宇宙といえども、どこにでもあるというものではありません。
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。(詩篇8篇4節)
藤村操の遠い親戚に当たる方に、日系アメリカ人の画家、マコト・フジムラ氏がいます。私たちが所属している教会で洗礼を受け、今ではクリスチャン画家としてニューヨークで活躍しています。「彼の抽象的な日本画の一作一作に創造主の大きな愛を感じる」と多くの人々に評価されています。彼は藤村操が見出せなかった人生の意味と美しさをイエス・キリストによって見出したのです。
大きな宇宙の中にあるこんなにも美しい星の数々を、人間以外の誰が、本当に美しい、素晴らしいと言って感動するでしょうか。この地球上に造られた数々の美しい自然と命にあふれた不思議ないとなみを見て、私たち人間以外の誰が、心をゆすぶられるほどの喜びを感じるでしょう。これらの被造物の全てが私たちのために造られたとしたら、私たちはなんと恵まれた存在でしょう。
最近ヒッグス粒子の存在が証明されたことが、科学者たちの間で話題になっています。この発見は、宇宙の中の全ての物質が重さを持っている理由を解明するカギになるものです。
全ての物質が重さを持っていることは当たり前だと思うかもしれませんが、実は、科学的には、それは説明のしにくい不思議なことの一つだったのです。
このように科学者たちは何とかして宇宙の不思議をひとつ、ひとつ解明しようと懸命に努力してきました。これからもそれを続けることでしょう。それはそれで、立派な仕事だと思います。けれども、全ての被造物を感謝して受け取ることも忘れてはなりません。宇宙は不思議を究明するためにあるだけではなく、その造り主に感謝するためでもあるのです。
私たちにとっての「不可解」は宇宙の大きさやその成り立ちの不思議さ、また、時の流れの厳格さだけではありません。私たちの周りのすぐ近くにも、「不可解」はたくさんあります。
コツコツと努力して積み上げて来た生活の全てが、一瞬の自然災害によって失われてしまうことや、ちょっとした不注意から、これから人生が始まろうとしている幼い子供が命を失ってしまうことなど、全く理由が分からない、やりきれない気持ちにさせられることが数え切れない程あります。
そのために注意を怠らないようにし、万全の備えをすることは大切ですが、そういうことが私たちの人生には絶対に起こらないようにしたり、起こる理由を完全に解明したりすることは出来ません。
飛行機や自動車といった便利な乗り物が無ければ痛ましい交通事故もほとんど無いことでしょう。けれども、私たちはその便利さを犠牲にする覚悟が出来ているでしょうか。この世の豊かさに心を注ぎ、その上に人生の基盤を築こうとしなければ、それを失う悔しさを味わうこともありません。この世のものは皆いつかは過ぎ去るのです。良いもの、素晴らしいものを失う悲しみは、たとえしばしの間であったとしても、それを持つことが出来たことの喜びを味わうことが出来た証拠です。
問題があるとしたら、私たちに与えられている全ての良いものに対する私たちの心構えにあるのです。私たちが持っている全てのものは初めから自分のものと言えるものはなく、全て神から預かっているのです。それを自分の所有物であるかのようにおごり高ぶるところに問題があるのです。
広大な宇宙や延々たる時間の流れ、美しい自然などが私たちだけのものでないように、家族も、仕事も、友だちも、健康も、才能も、自分のものと思っている全ての持ち物も、素晴らしい人生の全てが、私たちがこの地上で生きるしばらくの間、神が私たちに預けてくださった宝物なのです。
もし、神がそのうちの何かを私たちから取り上げられたとしても、それは、もっと素晴らしいものを持たせてくださるために、私たちの手を空にするためです。私たちはそれを悲しんでもいいのです。嘆いても泣いてもいいのです。しかし、それで神を恨むことはとんでもないことです。
むしろ、大切なものを失い悲しみにくれつつも、その痛みを共有して助けの手を差し伸べてくれる人々の愛と優しさに触れ、主に感謝するなら、大きな損失の痛手はやわらぎ希望が湧いてきます。
ヨブは言いました。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1章21節)
どんな時にも主に信頼することこそ、どのような宝物にも勝る永遠の宝です。
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10章11節)
私たちを創造なさった神は小さな私たちをも知り尽くしておられます。今も広がり続ける宇宙の大きさは私たちには想像することさえも困難です。その中を流れる時間がどれほどの長さかも計り知れません。それでも、私たちはその中でしばらく存在し、小さな場所を占めて生きているのです。
短いとも長いとも思われる私たちの生涯において、私たちを造られた方は、人生のあらゆる出来事を通して語りかけて、私たちがそれに応答するのを待っておられるのです。神は私たちをこの上なく愛してくださり、イエス・キリストによって神との応答を可能にしてくださいました。ですから、困難に直面した時こそ、主に祈り、語りかける時です。不可解と感じた時こそ、主に尋ねる時です。私たちが生かされているのは、創造主との永遠の信頼と交わりを築くためだからです。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛