祝福のメッセージ:2012ー07

祝福のメッセージ

福音書にあらわされたキリスト

No.201207   

十字架への道⑤ 人の子は引き渡されます



 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。(マタイ16章21節)

 イエスはご自分がエルサレムで十字架にかけられて殺されなければならないことを以前から知っておられました。けれども、弟子たちにはまだそれを伝えてはおられませんでした。それを弟子たちに示し始められた、その時とは、弟子の一人であったペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白した時からです。それを初めて聞いたペテロは「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」(22節)と言ってイエスをいさめました。するとイエスはペテロをお叱りになり、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(23節)と言われました。

 マタイの福音書にはイエスがもう一度、十字架と復活について弟子たちに話されたことが記録されています。それは、イエスの体が光り輝く栄光の体に変わるという素晴らしい光景を見た変貌山を後にして、再びガリラヤに戻った時のことでした。

 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。(マタイ17章 22、23節)

これと同じ記事はマルコの福音書9章にも書かれています。マルコの福音書では、

しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。(マルコ9章32節) と付け加えています。

 また、ルカの福音書9章では、マタイ16、17章とほとんど同じ内容が同じ順序で書かれています。最初は「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白した時、2度目は、変貌山の感動がまだ冷めやらないうちに、イエスとともにガリラヤへ戻った時でした。弟子たちはこの衝撃的なことばを聞かされて心穏やかではありませんでした。イエスがエルサレムで殺されるというのです。

 今では、イエスの十字架と復活は歴史上の事実として世界中に知れわたっています。ですから、現代の私たちはそれを「衝撃的なことば」とは感じないかも知れません。けれども、まだイエスとともにいて、そんな恐ろしいことが起ころうとしているなどとは想像さえもしていなかった弟子たちにとっては「とんでもなく、衝撃的なことば」でした。イエスが言われたことの意味がすぐには理解できなかったことは容易に想像がつきます。弟子たちは、あるいは戸惑い、あるいは悲しみ、恐れましたが、それをはっきり聞きただす勇気がありませんでした。

 自分たちが愛し、尊敬する先生が、大罪人のように十字架にはりつけにされることは想像しただけでもとても耐えられないことです。数々の奇跡と力ある業を行ない、人々から絶大な評価を受けていたイエスこそ、今すぐにでも王となって、ローマによる屈辱的な支配からユダヤ人を解放してくれる方だと期待していました。

 けれども、イエスの目指しておられる国は力によって制圧したり、時代とともに衰退してしまうような地上の国ではありません。イエスが目指しておられたのは、私たちの罪の代価としてご自分のいのちを投げ出し、私たちの罪が完全に取り除かれて、神とともに永遠のいのちを生きることが出来るような国です。そのためには私たちもイエスとともに復活する必要があるのです。私たちに永遠のいのちを与えるためにイエスは復活の初穂となる道を進まれました。それが十字架への道です。

 イエスはそのためにこの世に来られたからです。

 人類の罪はそれほど大きく、神と人とを隔ててしまっていたのです。その隔たりを取り除くためには、罪の代価を完全に支払う必要がありました。そのように大きな代価を神以外の誰が支払うことが出来るでしょう。

 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1章29節)

 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1章7節)

 イエスの心は、私たちには到底理解することは出来ませんが、罪の全くない方が、罪が無いにもかかわらず、大罪人として十字架にかけられて死ぬことはイエスご自身にとってもさぞかし恐ろしい道だったに違いありません。イエスはその十字架への道を黙々と進んで行かれました。

 旧約聖書の預言者イザヤが次のように預言した通りです。

 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。(イザヤ53章6-8節)

 それは、イエスを信じる全ての人が、罪を赦され、神に受け入れられて、イエスの復活とともに、永遠のいのちを受けることが出来るためです。

 私たちが「イエスは神の子キリストである。」と告白するならば、十字架を受け入れなければなりません。それこそ復活と永遠のいのちに至る道だからです。