祈りの家族への手紙:2012-08


 親愛なる祈りの家族の皆様、

 ロンドンオリンピックは終わりましたが、その余韻は今も残っています。選手たちは自分の力を出し切って力いっぱい競い合う姿によって多くの人々に感動を与えました。彼らがオリンピックに出場するために積み上げてきた努力と厳しい訓練は並大抵ではありません。国の代表選手として選ばれることも、予選を通過することも高度なレベルを要求されるからです。水泳でも陸上でも、100分の1秒の速さを競うのです。誰よりも速く、誰よりも高く、誰よりも上手になるために、それを妨げるどんな小さな欠点でも克服し、いつでも最高の力を発揮できるよう日夜厳しい練習を重ねたことでしょう。「人は努力次第で、こんなにも頑張れるのだ」と改めて知らされます。

 そして、誰よりも優れた結果を出した人だけが、金メダルの栄誉を受けたのです。

 その反面、人一倍頑張ったのに、運悪く一番になれなかった人や、ちょっとした失敗や予定の狂いから、実力はあったのにそれを出し切れなかった人も大勢います。しかし、オリンピックは競技ですから、それで全てが終わるわけではありません。その人にやる気さえあれば、悔しさをさらに厳しい訓練に耐える力にして次の機会を目指すことも出来ます。

 けれども、人生ではそうは行きません。誰でも参加できて、参加資格も予選も必要ありませんが、一度だけしか参加できません。実力を十分に発揮できなかったと言っても次の機会は無いのです。

 ところが、人生には失敗がつきものです。失敗をしないという人はひとりもいません。どんなに立派な人でも人に知られたくない失敗の数々を心に秘めているに違いありません。私にも悔やまれる失敗が数え切れないほどあります。

 では、私たちの人生は一つの失敗で永遠にだめになるのでしょうか。そんなことはありません。

 人生においては特に大きな失敗は無くても、与えられた環境によってはどんなに頑張っても思い通りには出来ないことがしばしばあります。何一つ思うようにはいかないと思うこともありますが、それであきらめてはいけません。勝負はまだついていないからです。

 確かにオリンピックに出場する人たちには才能があり特別に選ばれた優秀な人たちばかりです。国の代表として他の国々の代表と競ってくれるにふさわしい人たちです。

 けれども、自分の人生は自分が代表者です。ほかの人が代わってくれることはありません。

 「自分には才能が何も無く、欠点ばかりで恵まれているものは何もない」と思っている人がいるかも知れませんが、決してそうではありません。100分の1秒を競い、世界新記録を出して金メダルをいくつも獲得した鉄人のような選手でも弱さを持っています。本当は誰もが強さとともに弱さをも持っているのです。人生における本当の勝利者は必ずしも強い人ではないのです。

 トーマス・オーデン牧師は「神が願っておられるような自分」という本の中にこう書いています。「失敗の多くは、その人の長所や強さの中に原因がある」

 なぜ長所や強さが失敗の原因になるのでしょう。長所は思い上がって過信するとその人の短所となり、短所はそれを素直に認めて謙虚に振舞うとき、その人の長所として働くことにもなるのです。もし、あなたが神に喜ばれるような自分ではないと感じておられるとしたら、それは必ずしもあなたの才能や努力が足りないからではありません。「神に喜ばれたい」という願いが大きいからかもしれません。そうだとしたら、神はそれを喜んでくださることでしょう。

 勝利者になれない本当の問題点は能力や努力の足りなさではなく、心のもっと深いところにあるのです。それを自覚した時、答えが見えてきます。

 聖書は人の本質的な問題は罪にあると教えています。

 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3章23,24節)

 私たちの弱さは罪にあるのです。罪から来る弱さは努力によって克服できるものではありません。けれども、罪を自覚してそれを認めたとき、答えがすでに備えられていることが分かります。私たちの罪も弱さも全てを負って神に受け入れられる者としてくださる方がおられるからです。

 ですから自分の弱い面ばかりを見て失望してはいけません。だれひとり失格者になることを神は願ってはおられません。イエス・キリストを信じて心に受け入れたとき、神は私たちの罪も弱さも全て負ってくださり、私たちを義と認めて、勝利を目指すにふさわしい者としてくださったのです。

 高慢になってはいけませんが、自分を低く見すぎてもいけません。むしろ、ことさらに良い面を見出してそれに感謝しつつ、完成に向かっていっそう励むべきです。

 ロンドンのオリンピックは終わりましたが、私たちのオリンピックはまだ終わっていません。若い人たちはもちろんのこと、年配者たちにとっても、まだまだこれからです。

 私たちの弱さも罪も克服してくださって、神の目にかなう者としてくださった方を見上げつつ、栄光の冠を目指して走り抜こうではありませんか。

 兄弟たちよ。私は、「自分はすでに捕えた」などと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。 (ピリピ3章13,14節)

 先月は「神はなぜ、偉大な宇宙の中の美しい地球上に私たちを創造なさったのか」を考えました。

 今月は「神はなぜ、神にそむいた私たちの罪を贖い、受け入れてくださるのか」を考えつつ過ごしましょう。もちろん、その答えを出せるほど私たちは賢くはありませんが、それを思い巡らし、感謝することによって、私たちは神が定められたゴールによりいっそう近づくことが出来るのです。

 人生のオリンピックに参加して、人生のゴールにおいて最高の栄誉を受ける者になるためです。

 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。(テモテ第二4章7、8節)

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛