祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201208
十字架への道⑥ 天の御国で一番偉い人
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。(マタイ18章1-5節)です。
これと同じ記事がマルコの福音書9章35節とルカの福音書9章48節にも書かれています。「天国ではこれらの幼子のように心を低くする者が一番えらいのです。」とイエスは教えています。 一方、ヨハネの福音書13章においては、イエスは弟子たちの足を一人ずつ洗って手本をお示しになってこう言われました。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」 弟子たちはイエスを先生と呼んでいました。僕が主人に勝ることはなく、遣わされた者が遣わした者に勝ることはありません。それぞれに能力や才能に応じた立場と役割が与えられているからです。けれども、それによって人の価値に上下が決まるわけではなく、威張ったり、いじめたりすることが許されるわけではありません。むしろその逆です。上に立つ者ほど仕える精神を忘れてはならないのです。 世の中は弱肉強食の競争世界です。強い者が弱い者の上に立ち、富んでいる者が貧しい者を支配します。人は少しでも他の人の上に立とうとしてあらゆる策をめぐらして競い合い、また争うのです。
けれども、イエスは言われました。あなた方の間ではそうであってはなりません。 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。 (マタイ23章12節)
強い者が弱い者を支配し、強い者だけが繁栄するのは動物の世界ではごく自然なことです。それが彼らの繁栄を守るルールです。また、競技においても、強い者やより技術の高い者が勝利するようになっています。テストでもそうです。点数の高い者が合格し、基準点に届かない者は落第します。
けれども、人間の社会においてはそれだけであってはなりません。心の奥に疑問が湧き、空しさを感じるようになるからです。不満や争いの原因とり、不安定な社会を生みます。人々は「これではいけない、何かが間違っている」と感じる心を持っているのですが、それを実行する力がありません。
強い者が勝つというルールと、互いに助け合ってともに繁栄する社会を築きたいと願う、2つの相反する理念を同時に実現することは簡単ではありません。人の心は罪に支配されて、利己的になっているからです。
パウロもこのように告白しています。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。(ローマ人への手紙7章19節)
罪の性質を持った人間は自分の利益のためには他の人をかえりみないで、いけないと分かっていることさえ行なってしまうのです。まして、自分を犠牲にして他の人のために尽くすことは簡単にできることではありません。
では、イエスが教えられた「互いに仕え合いなさい」という教えは理想であって、現実には意味の無いものなのでしょうか。そんなことはありません。
罪の性質に打ち勝って本来のあるべき姿を取り戻すために、それを可能にする、罪以上に強い力があるからです。それは見返りを求めない神の愛です。
イエスは私たちにその手本を示して言われました。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20章25-28節)
神は私たちを罪から救い出すために、ご自分のひとり子を与えてくださいました。罪の全く無い神の子イエス・キリストが人類の罪の代価として十字架でいのちを差し出してくださったのです。私たちは神の前に罪の無い者とされました。ですから、イエス・キリストを救い主として信じている人は、見返りを求めない愛を実践する力を受けているのです。それをどのような時にどのように実践するかは私たち一人ひとりにゆだねられています。
イエスは十字架への道を歩むことによって、私たちにその手本を示されたのです。
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(ヨハネ第一の手紙3章16節)