祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201211
十字架への道⑨ 神殿から商人を追い出す
それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
(マタイ21章12-13節)
それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。(マルコ11章15-18節)
イエスがエルサレムに入られて神殿が商売人であふれているのをご覧になったときのことです。イエスは激しく憤り彼らを追い出されました。このできごとは4つの福音書すべてに記録されています。ルカは19章45-46節、ヨハネは2章13-17節。
どこの国へ行っても、昔から人々が大勢集まるところにはこうした情景がしばしば、見受けられるものです。食べ物を売ったり、見世物小屋を出したり、珍しいものを売ったりしているのを見ているうちに、人々はそれに目を奪われて、集まってきた本来の目的を忘れてしまうのです。
子どものころ縁日には沿道沿いにたくさんのお店が出てそれを見るのが楽しみに出かけたものでした。長い間、縁日とはそのお店のことで何らかの宗教と関係があるとは知りませんでした。けれども、本当の神を礼拝するときにはそのような態度であってはなりません。礼拝はどんなときでも神が中心でなくてはならないからです。
エルサレムの神殿でもそれによく似たことがあったように見えるかも知れませんが、大きな違いがありました。
イエスがご覧になったのは神殿の外で行なわれていたことではなく、礼拝の場所である神殿の中で行なわれていたことだったのです。
イエスは神を礼拝することに関しては高い基準を教えておられます。
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(ルカ10章27節)
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4章24節)
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』(ルカ19章46節)
当時、エルサレムの神殿には近隣に居住する人々だけでなく回りの国々に離散していたユダヤ人まで大勢が礼拝のために集まってきました。特に、ユダヤ人にとって大切な過ぎ越しの祭りが近づいていたこの時期には普段よりも大勢が礼拝や祭りのために集まってきていました。
神殿には礼拝者たちが旧約聖書の教えに従って奉げる動物や、貧しい人々が奉げ物にする鳩が売られていました。奉げ物を持ってくるよりは、その場で買う方が手軽だったからです。また、神殿で礼拝するときには神殿通貨だけが使われました。
両替人は当時一般に流通していたギリシャやローマの通貨から神殿だけで通用するお金に両替することによって利益を得ていました。これらの仕事は皆、神殿を管理していたレビ部族のイスラエル人からなる祭司や律法学者たちが支配していました。ですから、それを妨げるように見えたイエスの行動に対して反感や憎しみが起こり始めたのです。
祭司たちは神殿を司る者としての役目を旧約時代の昔から与えられて、生活が保障されていました。ですから、神殿内における彼らの商売は民衆への奉仕というよりむしろ、私欲のために彼らの特権を利用していたのです。
こうして、特権を守ろうとするユダヤ人指導者たちと、貧しさと抑圧に苦しんでいた民衆を憐れんで彼らの味方となられたイエスとの対立の構図ができてしまいました。ユダヤ人たちは何とかしてイエスを亡き者にしようと企てるようになったのです。けれども、民衆の圧倒的信頼を受けていたイエスには手を出すことができませんでした。そこで彼らはイエスを有罪にするほかの方法を探し始めたのです。
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。(ルカ19章47、48節)
ユダヤ人の指導者たちとの対立はイエスが意図されたことではありません。なぜなら、イエスの教えは敵をも愛し赦すことだからです。右の頬を打たれたら左の頬をも向けるよう教えておられました。ですから、本当の敵は全ての人の心の中にある罪です。イエスが商人たちを神殿から追い出されたのは、彼らを憎んでいたからではなく、神との交わりである祈りや礼拝の大切さを人々に示すためでした。けれども、ユダヤ人の指導者たちはそうは思いませんでした。彼らの立場が脅かされていると感じたのです。
このようにして、ユダヤ人の指導者たち、祭司や律法学者たちとの対立は避けられないものとなりました。イエスがこの世に来られた目的がこのような形で成就しようとしていたのです。神がご自分のいのちによって罪を贖う救いの業が最終段階にさしかかっていたのです。