親愛なる祈りの家族の皆様。
今までの人生で心から待ち望んでいたことは何だったろうかと考えてみました。初めての子どもが生れようとしていた時、一つの命が与えられる喜びもさることながら、これで自分もやっと1人前になれるような気がして緊張して待ち望んだものです。しかし、実際に一人前の人間になることはそんなにたやすいことではありませんでした。今でも自分の未熟さを思い知らされることがしばしばあります。それでも、期待して待望むことの大切さと尊さには変わりありません。期待するからこそ、期待したものの尊さに気づき、一生懸命になれるのです。期待して自分の人生の一部分として取り入れ、時間をかけて育むようになるのです。もし、期待をしなかったら、どんなに尊いものでも、何の価値もないものと同じように粗末にしてしまい、何も得られず、何も学ぶことができないかもしれません。
教会暦によると12月は「アドベント」と呼ばれています。アドベントは救い主イエス・キリストの誕生を待ち望む月です。
ダビデは詩篇の中で主を待ち望みつつ、このように歌っています。彼は、滅びの穴から、泥沼の状況の中から救い出してくださる方として主を待ち望みました。
私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。(詩篇40篇1、2節)
では私たちはどのようにイエス・キリストの誕生を待ち望めばよいのでしょう。イエス・キリストを「罪の束縛から解放してくださる最も大切な方」として、期待をもって人生に受け入れるのです。イエス・キリストはあなたの人生に無くてはならない方だからです。
救い主の誕生は神の約束であり、聖書の中に預言されています。キリストの誕生よりも何百年も前から、旧約聖書の中に繰り返し書かれています。古くはアダムとエバが最初に罪を犯した時、誘惑者となった蛇に向かって神が言われたことばに秘められているとも言われています。
救い主の誕生を預言する典型的なことばがイザヤ書の中にはたくさん書かれており、ヘンデルはそれをハレルヤコーラスで有名な楽曲「メサイヤ」の中で引用しています。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(イザヤ53章5、10節)
神は宇宙を創造なさり、人をその中に置かれましたが、人は罪によって神に背いてしまったため、神との間に隔たりができてしまいました。万物の創造者であり自分を造ってくださった方でもある神が分からなくなってしまったのです。そこで、神はアブラハムの子孫からイスラエル民族を選び、イスラエル民族の繁栄と衰退を通して目に見えない神に対する正しい知識をお示しになりました。イスラエル民族が神のことばに従っている間は国が繁栄し、神をおろそかにしてその教えに従わなくなると国は衰退して民は大きな苦しみを通されました。こうしてイスラエル民族は神の掟である律法に従うことを学んだのです。けれども、罪を犯して神から離れてしまっている人類は、神の律法を完全に守ることはできません。けれども、神は正義であると同時に、愛と恵みに満ちた方です。罪は罪として厳しく裁き、愛と恵みは惜しみなく注ぐ方です。この相反する両方が完全に成立するために、神が人間の姿となり人としての生涯を通して直接人類を救うご計画を実践なさいました。
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。(ヨハネ1章9節)
神が世に来られて人類の罪を全て引き受けてくださり、十字架の上でいのちをささげて罪を償うことによって、罪は罪として厳しく罰し、神の正義を貫かれたのです。こうして、罪を取り除き、人類への神の愛を余すことなく示されました。これが世の始めからの神のご計画だったのです。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5章8節)
ですから、私たちがイエス・キリストの誕生をお迎えする時、私たちの罪を引き受けて十字架の上で死なれた神の子イエス・キリストを心にお迎えするのです。
12月は師走とも呼ばれ、誰もが走り回るようにして忙しく過ごすほどです。けれども、そういう忙しさの中で、気がつかないうちに1ヶ月はあっという間に過ぎてしまいます。ですから、なおさらのことイエス・キリストを待望み、永遠のいのちを与えてくださる救い主として心にお迎えする時を持ちたいと思います。一日に5分でも10分でも時間を作って、神ご自身が人間となってこの世にこられ、私たちの罪の重荷を全て取り除いてくださったことを感謝するのです。実際に時間を決めて「イエス・キリストを私の人生にお迎えします。」と告白しましょう。こうして、その時間をイエス・キリストにだけおささげし、他のことをしたり考えたりしない時間にするのです。
東の国の博士たちは、高価な宝を幼子イエスに贈りました。
母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。(マタイ2章11節)
高価な品物がよい贈り物だというのではありません。その背後にある心こそが本当の贈り物です。救い主イエス・キリストの誕生を祝うにふさわしいほどの品が地上にあるでしょうか。
ですから、イエス・キリストのことを思い、そのためにだけ用いる時間をつくってそこに主をお迎えすることが今私たちにできる最高の贈り物となるのです。
一日のうちのわずかな時間を主のために聖別しておささげすることによって、残りの時間を今まで以上に有意義に用いることができるようになります。かえって、時間的なゆとりさえ持てるようになることにきっと驚かれることでしょう。その上、イエス・キリストからあなたに与えられている永遠のいのちの賜物を日々自分のものとして確認できるようになるのです。
主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(イザヤ55章6節)
あなたが毎日、主と語り合う時間を待ち望みつつ、その時間をイエス・キリストのためにささげる贈り物として聖別するなら、主は地上のどんな宝物にもましてそれを喜んでくださることでしょう。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井 剛