祝福のメッセージ:2012ー12

祝福のメッセージ

福音書にあらわされたキリスト

No.201212   

十字架への道⑩ ダビデの子

 イエスはエルサレムに入城なさり、ユダヤ人の指導者たちの陰謀によって十字架にかけられるまでの間にも人々にたくさんのことをお教えになりました。

「悪い支配者にも税金を払うべきか」「復活のからだとはどんな姿か」「最も大切な掟は何か」そのほか、「終末」「迫害」「艱難」「再臨」などの大切な課題についても教えられました。

 今回はその教えの中の一つで「ダビデの子とはどういう意味なのか」を学びます。クリスマスになると「ユダヤ人の王がダビデの子としてお生まれになった」という聖書のことばがよく引用されます。これは何を意味しているのでしょう。

パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。

「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」

彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」イエスは彼らに言われた。

「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」

それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。

(マタイ22章41-46節)マルコ12章、ルカ20章にも同じ記事があります。

新約聖書は次のようなことばで始まっています。

 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
(マタイ1章1節)

 ダビデはイスラエルの国が最も繁栄したときの王です。その後、イスラエルの国は分裂し、侵略され、滅ぼされました。けれども、聖書にはイスラエルの国が再興し、以前のように繁栄した国になることが預言されています。それを実現する王がダビデの子(子孫)として生れるというのです。

 ですから、イエスがこられて民衆を教え、病気を癒し、力あるわざを行なわれると、らい病人、盲人、体の不自由な人、悪霊につかれて苦しんでいた人などがイエスのもとに来て口々に「ダビデの子よ、私を憐れんでください。」と叫んで救いを求めたのです。

 「ダビデの子」は当時「救い主」の代名詞でした。やがてダビデのような偉大な王が現れて救ってくださることをイスラエルの人々は待っていたのです。彼らが期待していたのは、あくまでも地上的な国の復興であり、力であり、支配者でした。偉大なダビデ王の子孫であり、ダビデに匹敵するほどの権力者、ダビデのように偉大な支配者を期待していたのです。けれども、イエスの教えは違っていました。

 イエスはやがては衰退したり滅ぼされたりするような国、地上でしばらく繁栄して消えて行くような国を支配する王ではなく、永遠の国を永遠に治めてくださる唯一の王となるお方です。

 イエスはユダヤ人の指導的な立場にあったパリサイ派の学者たちに「キリストはだれの子ですか」とお尋ねになりました。

 彼らは即座に「ダビデの子です」と答えました。

 イエスがこのような初歩的なことを、当時聖書を一番よく知っていたはずのパリサイ人たちに尋ねられたのはどうしてでしょう。救い主の到来についての彼らの考えが不十分だったからです。むしろ、彼らの考えは間違っていました。救い主を待ち望んでいたことは決して悪いことではありません。しかし、彼らの思いは地上的な考えから一歩も出ることができなかったのです。

 もし、地上で支配する王であるなら、ダビデに勝るものではなく、ダビデの後継者です。ダビデは自分の後継者として王権を継ぐ者を決して「主」とは呼ばなかったことでしょう。けれども、イエスが指摘されたように、ダビデは来るべきメシヤを主と呼んでいます。

 主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

これは旧約聖書、詩篇110篇1節の引用です。

 「主が私の主に言われた」とある最初の「主」は、翻訳によっては太文字で書かれており、イスラエルの神の固有名詞として使われていることばです。ヤウエまたはヤハと訳されている場合もあります。私たちが全宇宙の創造主である神を呼ぶときのことばです。2番目の「主」はメシヤ(キリスト)として来られる方のことです。ダビデはその方を自分よりも偉大なキリストとし、主と呼んでいます。単に人間としての自分の子孫ではなく、人間であると同時に神でもある方です。神の子が人となって世に来られることを示唆していたのです。イエスが、「御霊によって」と言っておられるように、これはダビデ自身の知恵から出たものではなく、神がダビデを通して特別に啓示された真理です。

 イエスはこの真理を指摘なさったのですが、パリサイ派の学者たちはイエスの質問に答えることができませんでした。彼らは来るべきメシヤ、救い主、キリストを地上の王国の支配者としか考えていなかったからです。

 神の子が人となってこの世に来られ、私たちの罪を全て負って十字架でいのちを投げ出そうとしておられるのに、彼らには目の前におられるイエスが約束のメシヤ、キリストだとは分からなかったのです。

 イエスによるこの質問は私たちに対しても向けられています。

 神でありながら人となってこの世に来られたイエス・キリストを私たちはどのように受けとめているでしょうか。

 この方だけを私たちの救い主として心に受け入れているでしょうか。私たちの人生の中で何よりも大切なお方としてあがめているでしょうか。ダビデと同じように「私の主」と呼んで、心の中の一番高い所にお迎えしているでしょうか。

 これらの問いに、「はい」と答えることができるなら、その時こそ私たちは本当のクリスマスを迎えるのです。