祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201303
十字架への道⑬ 神の国の祝宴に招かれる人
イエスは終わりの日に関してもう一つのたとえ話をなさいました。
それは聖書の中では「子羊の祝宴」あるいは「王の婚宴」と呼ばれている未来の出来事です。神の国に招かれた人々が最初に集る盛大な宴会です。
ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。
ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』しもべは帰って、このことを主人に報告した。
すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』
(ルカの福音書14章16-24節)
ここでイエスが言われた宴会には特別な意味があります。ただ単に盛大は晩さん会というだけではありません。神の国への招待を意味するものだからです。
神の国の集いに招かれることは、この世のどんな華やかな晩さん会とも比べ物にならない深い意味があります。神の国の住民となって神とともに永遠に生きることになるからです。
この頃エルサレムでイエスの話を聞いていた人のほとんどはユダヤ人でした。彼らは自分たちを神の民と思っていました。けれども、ある人たち、特にユダヤ人の指導的な立場にあった律法学者やパリサイ人、そして祭司長たちは自分たちが決めた方法で律法を守り、神殿の儀式を行なっていました。ですから、神が救い主としてお遣わしになったイエス・キリストを、彼らが待ち望んでいたメシヤだとは信じませんでした。こうして、ユダヤ民族の救い主として遣わされたイエス・キリストをその民は受け入れなかったのです。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
(ヨハネ1章11節)
こうして、神の救いのご計画はユダヤ人から異邦人へと向けられるようになり、福音は全世界に伝えられていったのです。
イエス・キリストの福音を伝えることは人々を神の国の祝宴に招待することです。その招待を受け入れてイエス・キリストの教えに従った生き方をするなら、ユダヤ人に限らず、どの国の人でも神の国の住民として受け入れられ、神とともに永遠に生きることが出来るのです。
けれども、多くの人々は素直にその招待を受け入れてはくれませんでした。「今は忙しいから、他にやることがあるから」などと言い訳をして、聖書の教えを読むことも、教会に行くこともしません。
特別に選ばれた人が招待される晩さん会ではイブニングドレスやタキシードあるいは高価な和服を着て行くことが常識です。けれども、高価な衣装を持っていない人も大勢います。では、私たち庶民はそのような祝宴には出席出来ないのでしょうか。マタイの福音書には、礼服を着ないで晩さん会に来た人のことが書かれています。
ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。』と言った。(22章11節)
それではイエスがここで教えておられる、貧しい人々が招かれていることに矛盾するように思われます。けれども、ユダヤの習慣では、王の祝宴のように特別な宴会の席に招かれた場合、着て行くべき礼服があらかじめ用意されて、出席者に届けられるのです。神の国の祝宴に着て行くべき礼服は、イエス・キリストを心に受け入れて、キリストの品性で自分を覆うことです。聖書はそれを「キリストの義を着る」と教えています。
キリストのように完全にならなければだめだというのではありません。「イエスが私たちの罪の代価を十字架の上で支払って、私たちを罪のない者としてくださった」と信じるなら、神は私たちの中に、キリストのきよさを見てくださるのです。
ですから、せっかく用意された礼服を着ないで出席した人は、招いた人を軽んじて、失礼になることを承知の上で礼服を着なかったのです。そのような人はこの祝宴にはふさわしくなかったのです。
私たちはイエス・キリストを心に受け入れて、その教えを日々の生活の中で生かし、少しでもキリストの姿に似たものとなれるよう、信仰の礼服をしっかりと身に着けて神の前に出ようではありませんか。