祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201304
十字架への道⑭ 過ぎ越しの食事
いよいよ、敵対する人々がイエスを捕えて十字架にかける日の前日となりました。その日はイスラエルの人々が過ぎ越しの食事をする日でした。
過ぎ越しの食事とは、イスラエル人がエジプトの奴隷生活から解放されて約束の地に旅立つ前日の夕食を記念する行事です。それには特別な意味がありました。
エジプトの国に大きな災いが下されたとき、家の入り口に子羊の血が塗られていたイスラエル人の家だけは、何の被害もなく災いが過ぎ越して行きました。イスラエルの人々は苦しかった奴隷生活から解放され、エジプトを出て自由になれることを喜び、旅支度のまま大急ぎで食事をしました。そのときの食事は血を流すために殺された子羊の肉とイースト抜きの種なしパンでした。イスラエルの人々はそれを記念して毎年同じように過ぎ越しの食事をしていたのです。
イエスはエルサレムにあった大きな部屋を借りて弟子たちのために過ぎ越しの食事を用意なさいました。聖書には次のように書かれています。
さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
(マタイ26章17-19節)
イエスにとっては、これが弟子たちとの最後の夕食となります。その席でイエスはいくつかの大切なことを弟子たちに教えられました。
1.互いに仕え合うものとなりなさい。
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。(ヨハネ13章4、5節)
通常、客や主人の足を洗うのは奴隷や召使の仕事です。けれども、師であるイエスが弟子たちの足を洗い、ご自分から進んで仕えるものの姿をお示しになり、こう言われました。「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」
地位や財産で人を差別すべきではありません。一人ひとりが神の前には尊いのです。身分の高い人も低い人も神の前には平等です。互にその人格を尊重し、尊敬し合い仕え合うべきです。イエスは弟子たちの足を洗いその手本をお示しになったのです。
2.わたしにとどまりなさい。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15章5節)
ちょうどぶどうの枝が幹につながって十分な栄養と力を受け取って葉を茂らせ花を咲かせて実をみのらせるように、私たちもイエスにしっかりつながり、その教えを吸収して自分の中に取り入れているなら、私たちの人生は豊かな実を結びます。
イエスのいのちが私たちのうちに流れ込むので、私たちはイエスに似た美しい品性を持つ人に変えられていきます。
3.互いに愛し合いなさい。
あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
イエスは私たちに守るべきたくさんの戒めをお求めにはなりませんでした。互いに愛し合いなさい、という戒めは、数少ないイエスの戒めの中の一つです。イエスはなぜ「互いに愛し合うこと」を戒めとなさったのでしょう。
愛するに値する人だけを愛することは誰にでも出来ます。けれども、どんな人とも互いに尊敬し合い愛し合うことには努力が必要です。それをイエスの戒めとして実践することによって、実は、自分自身も愛されるに値する者ではないのにイエスがいのちがけで愛してくださっていることに気がつきます。イエスへの愛ゆえにその戒めを守ることにより、人を心から愛することが出来るようになるのです。
4.心を騒がしてはなりません。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16章33節)
私たちの心を騒がせたり悩ましたりすることはたくさんあります。恐ろしい事件の起こらない日はなく、問題のない人生はありません。そういう中でも平安を持つことは出来ます。イエスがご自分の持っておられる平安を私たちにくださるからです。イエスを信じる者がどんな問題や困難の中でも平安と喜びを持てるのはここに秘訣があるからです。イエスは弟子たちだけにではなく、あなたや私にもこの平安を残して行かれました。イエスは言われました。
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14章7節)
この平安は世の人々が自分の力で追い求めて得ようとしている平安とは違います。イエスから私たちの心に直接注がれるイエスが持っておられる平安です。
イエスが去って行かれる時が迫っていることを感じていた弟子たちには不安と恐れがいっぱいだったことでしょう。イエスはこれからすさまじい迫害の時が来ることを知っておられました。ですから、彼らには揺るぎない平安が必要だったのです。今あなたの心を騒がせる問題をお持ちですか。心配や恐れがおありですか。イエスはこの世が与えるものとは全く違う平安をあなたにも与えると言っておられます。ですから、恐れないでください。勇気を持ってください。あなたの心を騒がせ、恐れさせている問題はイエスがきっと解決してくださいます。
イエスと弟子たちとの最後の夜には、イエスはもっとたくさんのことを教えたかったに違いありません。しかし、彼らにはまだそれを理解する力がありませんでした。それでもイエスは彼らがその深い意味をはっきりと理解する時が来ることを知っておられました。ですから、全ての思いを込めてこれらのことばをお語りになったのです。それら一つ一つには大きな意味が秘められていて重みがあります。何度も何度も繰り返して学び、その深い意味を汲み取る必要があります。
その夜イエスはもう一つの大切な教えを弟子たちに残して行かれました。それは、次回にくわしく取り上げます。