祝福のメッセージ
福音書にあらわされたキリスト
No.201305
十字架への道⑮ 最後の晩餐、パンと杯の教え
十字架におかかりになる前に弟子たちと過ごされた最後の晩、イエスはたくさんの大切なことをお教えになりたかったに違いありません。けれども、弟子たちがそれに耐えられないことをイエスは知っておられました。
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたは それに耐える力がありません。(ヨハネ16章12節)
ですから、最後の晩餐の席で語られたことは、イエスがどうしても教えておくべきだとお思いになった大切なことばかりです。今回はその中からクリスチャン信仰の中心とも言えることを学んでまいりましょう。これは十字架前夜の教えです。
また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」(マタイの福音書26章26節)
教会ではこれを聖餐式として今も実行しています。
聖餐式ではまず、パンを裂いてそれを分け合って食べます。パンはキリストの体を象徴しています。私たちはキリストの体を分け合って自分の中に受け入れるのです。
キリストの体は私たちのために砕かれ傷つき苦しめられました。それは私たちが受けるべき苦しみをまぬがれて、癒されるためでした。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ53章4節)
キリストの体を象徴するパンの一部分を受け取って食べることによって、私たちはこの世においてキリストの体の一部分となり、キリストの働きを地上で分担して実行するのです。それによってキリストの働きとその教えがこの世でいつまでも続けられるためです。自分ひとりでそれを行なうのではありません。また、「自分一人ぐらいいなくてもいい」のでもありません。全員が一つになって初めてキリストの体を形成してその働きを行なうことが出来るのです。イエス・キリストは再び地上に来られる日まで私たちを通してこの世で働き続けておられるのです。
また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイの福音書26章27‐28節)
イエスが弟子たちにお与えになった杯はおそらく赤いぶどう酒だったことでしょう。イエス・キリストがこれから十字架刑によって流そうとしておられる血を象徴しています。
イエスは苦しみを受けて血を流し、命さえも投げ出されました。それは、イエスの流された血によって、神が私たちとの間に新しい契約を結ぶためです。
その契約とは「神の子、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりになって死んでくださること。私たちがそれを信じて受け入れることによって罪が赦されて永遠のいのちを受けること。」です。
この教えを忘れることのないように、聖餐式は繰り返して行なわれます。それをいつも心にとめておくためです。ですから、聖餐式においては次の聖書のことばが朗読されます。
主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。(コリント第一の手紙11章23-26節)
「わたしの血による新しい契約」と言われたイエスのことばには背景があります。
それは旧約聖書の出エジプト記の記事にさかのぼります。
イスラエルの民族は長年のエジプトでの奴隷生活から解放されました。そのとき神の裁きがエジプト全土に及びました。けれども、傷のない完全な子羊を殺してその血を家の入り口に塗ったイスラエルの家にはその災いが及ぶことなく通り過ぎて行きました。それはモーセを通して語られた神の約束だったからです。このことが、傷もしみもない完全な子羊の血によって罪が赦される、という契約のもととなりました。こうして毎年、過ぎ越しの祭りのたびにそれが行なわれるようになりました。
イエスが人々の前に姿を顕わされた時、バプテスマのヨハネはイエスを指さして、
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と叫びました。(ヨハネ1章29節)
イスラエルの民が律法に従って血を流させた「過ぎ越しの子羊」のように、イエスは十字架の上で血を流されました。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3章16-17節)
イエスはご自分のいのちによって人類を罪から救うという重い任務を負って、十字架へと進もうとしておられました。最後の晩餐の夜、パンとぶどう酒によって、その深い意味を弟子たちにお伝えになったのです。