祝福のメッセージ:2013ー06

祝福のメッセージ

福音書にあらわされたキリスト

No.201306   

十字架への道⑯ 弟子たちの裏切りと離散

 

 十字架への道を順序立ててお話をしていくと、どうしても通らなければならない悲しい事があります。それは、ユダの裏切りです。

 さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。(ルカ22章1-6節)

 迫害を受けたり裏切られたりすることは誰にとっても避けられないことです。けれども、イエスが言われたように、それをもたらす人はわざわいです。可哀そうです。間違った選択をしているのです。イエスは言われました。「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者はわざわいです。」(ルカ17章1節)

 ユダは間違った選択をしてしまいました。長い間生活を共にしてきた師匠を敵の手に渡すたくらみに加担してしまったのです。

 ユダがどんな誘惑を受け、なぜそれに負けてしまったのかは分かりません。誘惑を受けること自体は罪ではありません。私たちの周りには誘惑となるものがたくさんあります。毎日がそれとの戦いです。けれども、それに負けなければいいのです。自分の思いや、自分の考えで誘惑に勝てると思ってはなりません。簡単に勝てる誘惑もありますが、弱点をめがけて攻撃してくる誘惑には簡単には勝てないものです。自分を過信せず、主に頼ることを学んでください。それが誘惑に勝つ秘訣です。

 ユダはどんな誘惑を受けたのでしょう。銀貨30枚の報奨金がほしかったのでしょうか。聖書は「サタンが入った」と言っています。おそらくユダもイエスを愛して従っていたに違いありません。しかし、ちょっとしたすきに、サタンが心に忍び込んで、誘惑に負けてしまったのでしょう。迷いや弱さを感じた時は、ありのままの姿でイエスのもとに飛びこむべきでした。

 ユダが裏切り、イエスを殺そうとしていた人々の手に渡してしまったことで、取り返しの付かないことになってしまったのでしょうか。そうではありません。全ての人が罪から救われるためには、イエスが十字架にかかる必要がありました。また、弟子たちが迫害を逃れて世界中に散らされ、そこでもイエスの教えが広がって行くことになるのも神のご計画の中にあったことです。ユダの裏切りがどんな結果を招いたにせよ、自分の誤りに気が付いた時、すぐに悔い改めてイエスのもとに立ち返るべきでした。そうすれば彼の生涯は決定的な災いとはならなかったことでしょう。

 十字架を直前にしたイエスを裏切ったのはユダだけではありませんでした。熱心にイエスに仕えていたペテロもイエスが捕えられた時、「私はイエスなど知らない。」と3回も言ってしまいました。

 彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。(ルカの福音書22章54-62節)

 イエスを裏切ったのはユダやペテロだけではありません。私たちもしばしばイエスを裏切るようなことをしてしまいます。「私は誰が何と言ってもイエスを信じ、イエスに従っていくのだ。」と思っていても、状況によっては、イエスとは関係ないような態度をとることはないでしょうか。

 ペテロは「そんなことになるくらいなら、死を選びます。死んでもあなたを知らないなどとは言いません。」と断言していました。それは彼の本心だったに違いありません。けれども人間は弱いのです。周りの状況に屈してしまうことがあるのです。イエスは決してそれをおとがめにはなりませんでした。

 ペテロが「私はあんな人は知らない。」と言った時、遠くにおられたイエスと目が合ってしまいました。イエスはペテロをにらみつけたでしょうか。決してそんなことはありません。しかし、ペテロはイエスを見た時、自分の弱さを思い知らされて、外に出て行って激しく泣きました。そのペテロの気持ちが痛いほどよく分かります。イエスもきっと悲しまれたことでしょう。イエスが悲しまれたのは、ペテロに裏切られたからではありません。イエスは私たちの弱さを知っておられます。イエスはユダの裏切りも、ペテロの裏切りも、また、私たちの不忠実も承知しておられます。イエスが悲しまれるのは、裏切られたからではありません。私たちがみじめな思いをしなければならないからです。イエスは私たちのために悲しんでくださるのです。

 イエスを売ったユダは、自分のしたことを悔み、自殺してしまいました。イエスはどんなにそれを悲しまれたことでしょう。ペテロが「私はあんな人は知らない。」と言った時、ペテロはどんなにかみじめで悲しかったことでしょう。自分の命をかけて来た事を自分で否定してしまったのです。イエスはみじめな気持になったペテロに深く同情されたことでしょう。

 もし、あなたが同じような状況になった時、思い出してください。イエスは決してあなたをとがめるようなことはなさいません。イエスの愛はどんな時にも変わりません。それ以上あなたが悲しむことのないよう、大急ぎで悔い改めて、イエスのもとに立ち返り、その大きな深い心に飛び込んでください。