祈りの家族への手紙:2013-07

 親愛なる祈りの家族の皆様

 先日私たちは久しぶりに子供たちの家族に会うことができて、数日間、いろいろと話し合うことができました。孫たちに会い、彼らの話に耳を傾ける楽しみもさることながら、子どもたちが直面している人生の生き方についても、もっと知っておきたいという願いもありました。親としてまだまだ知らないことがたくさんあることに気が付きましたが、彼らは彼らなりに成長して自分たちの人生を築いているのです。彼らが信仰にとどまる限り、彼らの生き方に信頼して、祈りつつ見守ることにしました。

 いつまでも親の権威を振りかざし、教えようとばかり思っていると、いつの間にか壁ができて、何も話してくれなくなるかも知れません。結果を恐れず、信頼して見守っていれば、壁を作る必要がなくなるので、いつまでもありのままでいられます。

 私たちはイエス・キリストについてももっといろいろと知りたいと願っています。そのためには先ず彼を信じて、彼に信頼をおくことが大切です。信じることは誰にもできる簡単なことですが、イエス・キリストを信じることは天地が逆になるほど重大なことです。人生が全く変わるからです。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)

 イエスを信じることはこの方に自分の人生の全てをお任せすることです。そうすれば、無駄な重荷を背負うことも、必要のない心配をすることも、人の目を気にして悩むこともありません。

 イエス・キリストを信じ、心がいつもこの方に向いているかぎり、私たちは罪と罪の誘惑の危険から遠ざかります。恐れがなくなり、自分の力を正しく発揮することができて、人生は平安と祝福のある豊かなものとなります。人生が終り、イエス・キリストにお会いする時も「わたしはあなたを知らない」と言われるようなことはありません。

 私たちはイエス・キリストを通してでなければ父なる神を知ることはできません。人々はよく、「山頂に至る道はいろいろあるけれど、みな同じ山頂に続いているのだ」と言います。けれども、それは違います。危険な谷底へと続く道もあれば、迷い込んで途中で分からなくなって消えてしまう道もあるからです。真の神に至る道はただ一つです。

 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)

 宇宙の片隅でほんの短い時間だけしか生きていない人間の知恵で、宇宙を創造し、思いのままに動かし、私たちを御元に引き寄せておられる方を完全に理解することなど出来るはずがありません。

 私たちは神に造られたものです。造り主に勝ることはなく、造り主を完全に知ることはできませんが、造り主に愛されています。神でありながらへりくだって人の姿となり、人を愛し人とともに住まわれたイエス・キリストを通して真実の神に導かれるのです。

 ですから、私たちはイエスに学ぶのです。イエスのように考え、イエスのように行なうのです。それは難しいように思えますが、心を向けてさえいればイエスご自身が分からせてくださいます。

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。

 そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11章29-30節)

 くびきとは、牛に荷物を引かせるために2頭を合わせて首や肩に丈夫な木を括り付け、それに車や道具をつないで引かせる物です。その時、一頭は何年もその仕事を続けた経験のある牛を使い、もう一方にはまだ荷物を引いたことのない若い牛をつなぎます。そうすれば特別に教えなくても、若い牛は一緒に荷を引いているうちに経験のある牛から上手に荷物を引く秘訣を学ぶのです。あまり頑張らなくても、一緒に歩いていれば先輩の牛が重荷のほとんどを引き受けてくれるからです。

 喜びの時にも、悲しみや困難の時にも、イエス・キリストに感謝し、慰めを受け、助けを求めると、多くの場合、祈りは聞かれ、励ましを受け、平安を与えられ、感謝に溢れます。それでもなお、イエス・キリストについて分かっていないことがたくさんあります。まだ顔と顔を合わせて見たことはなく、直接会ったこともない方が、どうして私たちにそんなにも良くしてくださるのでしょう。どうしたら、さらにもっと良くしていただくことができるのでしょう。人生に豊かな恵みを受け、確実に助けられ、平安と祝福に満たされるために私たちにできることがあるのでしょうか。

 私たちの目標はイエスのようになることです。けれども、必ずしも、病人を癒したり、水の上を歩いたり、パンや魚を増やす奇跡を行うことではありません。イエスのそば近くを一緒に歩いて、へりくだって人に仕える者になることです。他の人のことを考えて、どんな時も仕える気持ちで行動することです。イエスは師でありながら弟子たちの前に膝をかがめて彼らの足を洗われました。そして、「あなたがたも同じようにへりくだって互いに仕え合いなさい」と言われました。

 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコの福音書10章45節

 イエスは手本をお示しになりました。最後には、私たちを罪から救うために神としての栄光を捨て、十字架で命を投げ出し、仕えることの究極の手本によって私たちへの愛をお示しになりました。

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2章6—7節)

 神でありながらその偉大な力をご自分のためには用いず、限りなく聖なる方でありながら罪びとを憎まず、ご自分のいのちをかけて私たちを罪から救い、その愛をお示しになりました。この方のことをもっとよく知るために、いつもそば近くを歩み、もっと多く学びたいと思います。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード祈りの家族 

桜井 剛