祝福のメッセージ:2013ー08

祝福のメッセージ

福音書にあらわされたキリスト

No.201308 

  
十字架への道⑱ ゲッセマネの園での祈り

 

 ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14章32-38節)

 最後の晩餐の後、イエスは弟子たちを連れてゲッセマネに行かれました。そこはオリーブ山の近くにあり、静かな園になっていて、イエスがしばしば弟子たちとともに祈りの時を持たれた場所でした。

 イエスの祈りはいつも恵みと祝福に満ちた祈りでした。その祈りには権威がありました。癒しの祈りも、悪霊を追い出すときの祈りも、ラザロを復活させたときの祈りもその祈りは必ず聞かれるという自信と力に満ちていました。わずかのパンと魚で大群衆を満腹させた時の祈りは感謝と祝福の祈りでした。

 けれども、ゲッセマネの園におけるイエスの祈りは切実なものでした。

 「わたしが祈る間、目を覚まして、ここにすわっていなさい。」と弟子たちにいいつけて、3人の弟子だけを連れて園の奥に行って祈られました。

 「アバ、父よ。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」

 この杯とは、これからイエスが受けようとしておられた十字架の苦しみのことです。十字架の苦しみは、ただ単に肉体的な苦しみだけではありませんでした。

 私たちはあの恐ろしい十字架刑のことを思うとき、人に肉体的な苦しみを極限まで与える残虐で野蛮な処刑のことを思います。ローマ人は自分たちが征服して支配している他民族に対して、そのような恐ろしい刑罰によって服従させていたのです。

 けれどもイエスの苦しみはそれだけではありませんでした。

 宇宙の創造者であられる全知全能の神をアバ父と呼べる位におられながら、見捨てられ、極限の苦しみの中に放り出されようとしておられたのです。それは、私たちには想像もできない、苦しみだったことでしょう。

 霊的にも肉体的にも大きな苦しみでした。そこで「できることならこの杯をわたしから取りのけてください。」と祈られたのです。

 けれども、その杯は人類を罪から救うためにはどうしても通らなければならない、イエスにしか飲み干せない杯でした。

 ゲッセマネの園におけるイエスの祈りは長い祈りでした。一緒にいた弟子たちが眠り込んでしまうほどの時間でした。その間、弟子たちは一緒に祈ることも、目を覚ましていることさえもできませんでした。過ぎ越しの祭りを祝う晩さん会の後でもあり、夜も更けていました。生身の人間としては無理もないことだったかもしれません。しかし、その夜は、イエスにとって生涯で最も激しい霊的な闘いの時だったのです。その闘いにイエスはたった一人で立ち向かわなければなりませんでした。

その晩、イエスは3度もそのような苦しい祈りを重ねられました。

 私たちの祈りがいつもそれと同じような祈りでなければならないというわけではありません。けれども、どうしても祈りを聞き入れてほしいと願うとき、イエスの祈りにならって、同じように真剣に祈るときを持ってもいいのではないでしょうか。

 イエスは「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように」と祈られたと書かれています。「あなたにおできにならないことはありません」とも祈られました。それがその時のイエスの気持ちだったに違いありません。けれども、イエスはもっと深い神の摂理を知っておられました。

 イエスが祈られたように、神にはどんなことでもできないことはありません。けれども、これからイエスが通ろうとしておられた道は、人類を罪から救い神の子として受け入れるためにはどうしても変えることのできない道だったのです。

 そこで、イエスは「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と祈られました。

 どんなことが待ち受けていようとも、神の御心がなることが私たちにとっても最善なのです。イエスはそのことをよくご存知でした。

 そこで、イエスは「あなたのみこころのままを、なさってください。」と祈られ、その苦難の杯を受け入れてくださったのです。

 私たちはどんなに感謝しても感謝しきれません。イエスのこの苦しみのゆえに、私たちの罪は赦され、神と和解して、永遠のいのちの約束を得ているのです。イエスの十字架がなかったら、復活もなく、永遠のいのちの希望もありませんでした。

 私たちの経験する困難はイエスのとは比べ物になりませんが、それでも、心を注いで真剣に祈る祈りは、神の御心を動かし、その御手を動かすことができます。

 ただ、どのような祈りの時にも、イエスが祈られたことを忘れないでください。

 「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」