祝福のメッセージ:2013ー09

祝福のメッセージ

福音書にあらわされたキリスト


No.201309   

十字架への道⑲ ユダの裏切りとイエスの逮捕

 

 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。(マタイ25章46-50節)

 イエスが祈り終えて弟子たちのところに戻ってこられたとき、弟子たちはすっかり眠り込んでいました。血のにじむような汗を滴らせて祈り終えられたイエスが最初にご覧になったのは、眠り込んでいる弟子たちの姿でした。そればかりではありません。祭司長や律法学者がユダに先導されて園にやって来ました。彼らにそそのかされた群衆も押しかけて来ました。

 イエスはいつも民衆とともにおられ、民衆と同じ服装をしておられました。大祭司のように着飾ってはおられず、律法学者たちのように誰の目にも一目でわかるような目立つ身なりをしておられませんでした。ですから、イエスの顔をよく知っている人でなければ、間違えるかもしれないという心配があったのでしょう。そこで、彼らが確実にイエスを逮捕できるように、あらかじめ弟子のひとりであったユダと申し合わせておいたのです。

 このようにしてイエスはユダヤ人の指導者たちによって捕えられました。イエスは逃げも隠れもしませんでした。剣を抜いて抵抗しようとした弟子の一人をなだめて、こう言われました。

 剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。(52-54節)

 「聖書に書いてあることは必ず実現しなければならない」とイエスは言われました。それは人となってこの世に来られ、私たちを永遠の滅びから救うために十字架で命を投げ出されることです。すなわち、イエスの十字架の死は、神のご計画が成就するためには不可欠だったのです。それを止めることは誰にもできません。
 神が遣わされた救い主による贖いの死は聖書の中に預言されていて聖書全体にわたってたくさん書かれています。聖書の中心テーマが「神の子イエス・キリストによる十字架の死による罪の贖い」だからです。その具体的な預言のことばを一つ引用します。それはイザヤ書53章に書かれています。この預言のことばは実際に起こるよりも700年以上も前に書かれました。

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。(イザヤ書53章4-6,10節)

 ですから、このことは必ず起こらなければならないことだったのです。神は困難や不幸な出来事を私たちから取り除いてくださることも、それを用いて幸いを生み出すこともお出来になります。

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)

 すべてのことを益としてくださるからと言っても、何をやってもよいというわけではありません。恐ろしい出来事や悪い企みに加担する者になってはなりません。

 ユダはイエスの弟子のひとりでした。けれどもイエスの反対者たちであるユダヤ人の指導者たちに自分の師匠を引きわたしてしまったのです。どうして彼がそのような誘惑に負けてしまったのか、それが彼の本心だったのかは誰にも分かりません。いずれにしても彼はそれによって自分の身を亡ぼすことになりました。

 ユダヤ人の指導者たち、律法学者とパリサイ人は自分たちの権威を保つために邪魔であったイエスを死刑にすることに成功しました。すべては計画通りになり、彼らの権力は安泰であるように見えました。けれども、エルサレムは間もなくローマによって再び占領され、あとかたもないほどに破壊され、彼らの自治権も取り上げられてしまいました。

 神のご計画は必ず成就します。それを妨げる者の側ではなく、それを来らせる人々の中に立つものとなろうではありませんか。