祝福のメッセージ:2013ー10

祝福のメッセージ

福音書にあらわされたキリスト

No.201310

十字架への道⑳十字架刑判決とゴルゴタへの道

 

 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。

 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕えられていた。
 総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
 ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。(マタイ27章11-26節)

 イエスは捕えられてローマ総督ピラトのところに連れて行かれました。最も重い判決を下してもらうためでした。ピラトはイエスを調べても何の罪も見出すことが出来ませんでした。

 ヨハネの福音書によると、イエスとピラトは地上の国ではない王国があることや真理について語りました。ピラトもそれに対して真剣に応答しました。けれども、祭司長や長老たちの訴えに対しては何の弁明もなさいませんでした。イエスはご自分が通らなければならない十字架への道をはっきりと自覚しておられたのです。

イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。」「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。」ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。」
(ヨハネ18章36-38節)

何とかしてイエスを救いたいというピラトの願いもユダヤ人たちの圧力には勝てず、ついにイエスを引き渡してしまうことになりました。

 ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」(ヨハネ19章10-11節)

 こうしてイエスはまず鞭打ちの刑をお受けになりました。それはローマ人によって執行されました。ローマの鞭は単なる革の鞭ではなく、陶器や金属の破片が組み込まれていて皮膚の下まで食い込んで傷つけるものでした。罪人の人格に対する配慮も容赦もない、征服者が征服された民族を恐れさせ従わせる道具として使われた残酷な鞭でした。それによって命を落す者も多かったと言われています。イエスがそのような仕打ちを受けることはイザヤによって何世紀も前から預言されていました。

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
(イザヤ書53章4、5節)

 数年前に「パッション」という映画が話題になりました。その中ではイエスがお受けになった鞭打ちの刑と十字架刑が生々しく表わされていました。けれども、実際にイエスがお受けになった痛みと苦しみは肉体的なものだけではありません。

 肉体的な痛みはどんなに大きくても過ぎ去ってしまえば傷は残りますがその時の痛みは忘れてしまいます。けれども、心に受ける痛みは目に見える傷こそ残りませんが簡単には消えるものではありません。イエスがお受けになったのはその両方です。しかも全てをご自分のためにではなく私たちのために進んでお受けになったのです。

 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。(イザヤ書53章7、8節)

 肉体的にも精神的にも痛めつけられたあげく、ご自分がはりつけになる十字架を背負ってゴルゴタと呼ばれる刑場へ引いて行かれました。イエスにはその重い十字架を負う力さえ残っていませんでした。そこで兵士は、集まっていた大勢の群衆の中から一人の男をむりやり徴用して十字架を背負わせ、イエスの後に従わせました。

 イエスが歩まれた道は今も残っています。地域の人々は石畳の狭い路地がそれだと言います。イエスはその道を私たちの罪を全て背負って刑場へと向かわれました。
 大勢の群衆がその行列について行きました。イエスをメシヤと信じてはるばるガリラヤ地方からついて来た人々もいました。イエスによって病気が癒されたり、人生が変えられたりした人々もいました。数時間前には、祭司たちや律法学者にそそのかされてピラトの前で「十字架につけよ」と叫んでいた人々もいたことでしょう。

 イエスは彼をメシヤと信じた人も、彼の教えに反対した人も、ご自分の十字架刑をたくらんだ人をも含めて、全ての人を救うために十字架へと進まれたのです。