祈りの家族への手紙:2014-03


 伝統的な教会歴ではイースターまでの40日を受難節と呼び、今がそれにあたります。その間、ある人々は、イエスの受難を思い、それを実感して自分もその苦難の一端を負いたいという気持ちから、断食をしたり、好きなことをやめたり、楽しいことを控えたりします。そうすることによって、復活の喜びをより一層実感できるというのです。

 それを行なう人たちの気持ちはよく分かりますが、主は私たちが苦しむことを願っておられるわけではありません。ですから、そうしなければいけないというわけではありません。ただ、少しでもイエスが受けられた苦難に近づきたいと願う気持ちから喜んで行なうならすばらしいことです。

 イエスの受難と復活とは一連の出来事です。十字架の苦しみを通して私たちに永遠のいのちへの復活をもたらしてくださったからです。イエスは私たちの人生も苦難だけで終わるのではないことを保証してくださっているのです。

 困難な時代は過去にたくさんありました。戦後の困難な時代を生き抜いてきた人たちが私たちの周りにはまだ大勢おられます。人々はたくましくそれを乗り越えて来たのです。震災から3年たった今もなお苦しみ続けておられる方々も少なくありません。けれども、人々の中に心からの同情や助け合いの心が目覚めて、誰もが無関心ではいられなくなっているのも事実です。苦難を通して、私たちの内にある互いを思いやる心が復活したと言えるかもしれません。

 今の時代は、苦難と混乱の時代であるとよく言われます。わざわざ苦難を求めなくても、私たちの周りには人々を苦しめていることはいくらでもあります。世界経済の低迷により失業や低賃金で生活が苦しく、未来にも希望を持てないでいる若者たちのことを思うと心が痛みます。高齢者たちの将来も決して安心できるとは言えません。その上、自然災害や異常気象が頻繁に起こり、人々を苦しめています。最近ではことさらに大きな地震や噴火の兆しさえ報告され、それに対する備えが不十分であるために人々を心配させています。まさに受難の時代なのでしょうか。けれどもイエスは言われました。

 あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16章33節)

 では、このような現実的な困難の先にどうしたら現実的な希望を見出すことが出来るのでしょう。イエスの受難が復活の前ぶれであったように、私たちの直面する困難は神の栄光がより顕著に現わされるためです。ですから、私たちはまず自分が今直面している問題や困難を見つめなおす必要があります。怖がって考えないようにしたり、逃げ回ったりしないで、それを神の前に差し出して、祈りの課題として掲げ、そのこととしっかりと向き合うのです。真剣に祈っていると、それは思っていたほどに悪いことではないことが分かるかもしれません。

 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9章1-3節)

 神がその困難をお許しになったのなら、あなたがその困難と闘っていることも知っておられて、最後まであなたの面倒を見てくださいます。神の力は私たち人間の力の及ばないところに、より顕著に現わされて栄光と力をお示しになるのです。

 イエスは言われました。

 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10章29-31節)

 私は朝起きて、枕やベッドの周りに髪の毛が落ちているのに気が付くことがあります。大きな声で「イエス様、私の髪の毛がまた一本減りましたよ。」と言うと、妻は笑って言いました。「あなたが報告しなくたってイエス様はご存知よ。」

 私は神の偉大さや大きさを、宇宙の不思議さを例に挙げて、何度かお話しました。私たちの住んでいる地球がこの大きな宇宙の中でどんなに特別な配慮がされている特別な星であるかもお話ししました。それも確かに私たちの想像を越えた驚くべき神の配慮ですが、私たちの髪の毛一本さえ数えておられることもまた、驚くべき神の愛による配慮です。この方の手の中にある限り私たちは何も心配する必要は無いのです。

 神の手の中から迷い出て、罪の中をさまよっていた私たちを、イエスはご自分の命という代価を払って買い戻してくださいました。十字架の苦しみは私たちのためでした。けれども、それが全てではありません。罪が赦されただけで終わりではないのです。神の前に罪を取り除かれたのは、復活と永遠のいのちを受けるためなのです。

 イエスがお受けになった苦しみの一つ一つ、一瞬一瞬の中に、私たちへの神の愛が込められてい¥られ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53章4、5節)

 あなたが今経験しておられる困難も痛みも苦しみも、イエスは全て知っておられます。あなたには癒しと平安が必要であることもご存じです。ですから、その痛みをもあなたと共に負ってくだり、イエスの平安を分け与えてくださいます。そして、その続きとして復活と永遠のいのちの栄光へと導いてくださるのです。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード祈りの家族

桜井 剛