祝福のメッセージ:2014ー03

祝福のメッセージ

No.201403


 クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡

3.自由意志に大きな苦しみを伴う危険を侵すほどの価値があるのか

 息子へ、

 おまえの返事は大変興味深く読んだよ。自由意志には責任が伴うということはよく分かった。しかし同時に、自由意志がなぜそんなに価値があるのかが分からない。

 人間に自由意志を持つことによってヒットラーやスターリンのような人物が現われて何百万人もの人々の尊い命と自由を奪う結果となっているのを見ると、神が与えたという自由意志はとても危険でお粗末なもののように思えるからだ。人間にそのような自由意志を与える神など、全知全能とは思えない。第一、自由意志がそれほど大事なものなのだろうか。

 強姦されたうえに殺されたフロリダの少女に聞いたらきっと「そんなものはない方が良かった。」というに違いない。アウシュビッツの収容所に入れられて殺された大勢のユダヤ人たちに聞いても、きっと同じ答えが返ってくるに決まっている。

 世界中の苦しみをお前に押し付けるつもりはないが、誰もが抱いている当然の疑問だと思うよ。

 これは大変難しい質問だと思うから、今回はこれだけにしておこう。お前からの返事を楽しみにして待っている。

 愛をこめて、

 父より

 

3.自由意志が大きな苦しみと危険を伴う価値があるのか、という疑問に答えて

 親愛なるお父さん。

 お父さんが真面目に私の手紙を読んで正直な疑問を投げかけてくれているのを感じてうれしく思っています。今回の質問もとても重要な点をついています。

 この議論には4つの大切な点があると思います。

 第一点は、自由意志を与えることの危険性です。

 もし、愛の対象となる人間が世界中に一人だけしか存在しなかったとしたら、苦しめる可能性のある人も一人です。もし私に、少しだけ愛する自由が与えられていたら、その人を苦しめることも少しだけです。多く愛することが出来る自由を持っていれば、多く苦しめることも出来る自由があるのです。

 人が極めて大きな悪を行なう可能性を持っているということは、逆に言うなら、極めて大きな善を行なう力を持っているということなのです。

 確かにヒットラーやスターリンのような人物もいますが、マザーテレサやキング牧師やネルソン・マンデラのような献身的な人もいるのです。何百万人もの命を奪う能力と可能性が与えられているということは、それに匹敵するほどの良いことを行なうことのできる力が与えられているということなのです。それを、良いことのために正しく用いることが全ての人に求められているのです。初めから制限された自由は本当の自由ではありません。そこに神の大きな知恵と私たちへの限りない期待あるのです。

 哲学者はこれを形而上学的真理と呼び、コインの両面のようなものだと言います。

 第二点は、自由意志の価値についてです。

 多くの残酷な出来事を見聞きして、そのようなことが出来る自由意志の価値を疑う気持ちはよく分かります。けれども、人を愛することにも子どもを育てることにも人々との交わりの中でも、私たちはしばしば悩みや苦しみを經驗します。お父さんもきっと経験してこられたことでしょう。人に裏切られたり、愛する人と死別したり、子どもたちに反抗されたりします。それでも、人を愛することをやめません。それを恐れて愛することをやめてしまうとしたら、その人は正常とはいえません。

 愛さなければ、傷つくこともありませんが、それでは本当の人生とは言えません。

 愛のない宇宙は単なる大きな広がりにすぎません。神の知恵と力は単に大きなものを造るだけのものでしょうか。愛の伴わない被造物はどんなに静かで平常だったとしても、何の価値も見出せません。そこに自由意志の存在が必要になるのです。

 第三点は、自由意志を与えることの危険性は単に人間にだけあるのではないことです。神もその危険性を負ってこの世界を創造なさったのです。

 神は創造された人類によって裏切られ反逆され悪く言われてきました。それ故に神は多くの痛みを負われたと聖書に書かれています。神は人を愛する故にご自分が創造なさったものからの苦しみをもお受けになるのです。そして、その人類をご自分のもとに引き寄せるために大きな犠牲を払われました。それは、神ご自身であるイエス・キリストの十字架によって、反逆の罪の代価を全てご自分が負って支払うことでした。神は大きな愛の可能性がご自分に向けられることを期待して、反逆する危険を伴った自由意志を人類に与えて愛し通されたのです。神とともに永遠に生きるためにはそれだけ大きな犠牲が伴なっていたのです。それを承知の上で人類に自由意志をお与えになりました。

 第四点は、その価値は創造された人間の中にあります。人が生まれ育ち喜び悲しみ楽しみ苦しみ痛み死んでいくだけなら、愛と苦しみを伴った人生に自由意志の価値はないと言えるかもしれません。けれども、人の魂は永遠の存在として造られたのです。人生にどんな痛みや苦しみが伴ったとしても、喜びや感動がどれほど大きなものだとしても、それだけで終わるものではありません。悪や不公平や憎しみがあり、平安や喜びや感動がある人生は神との出会いの場所なのです。神と出会い、永遠に生きるためなのです。それがなければ人生はあまりにも不十分です。

 私はそこにこそ、神を信じ、イエス・キリストを信じて生きる人生に価値があると思っています。お父さんにもそれを知っていただきたいのです。

 大きな愛をこめて、

 息子のグレッグより