今年のイースターは4月20日です。その前の一週間にはいろいろな出来事がありますが、それを受難週と呼び、現代のカレンダーに合わせると、次のようになります。
4月13日はしゅろの日曜日です。イエスはロバに乗ってエルサレムに入城されました。大勢の群衆がしゅろの枝を振りながら「ホザナ、ホザナ」と叫んでイエスを歓迎しました。この方こそ、自分たちを苦しめている圧政から救ってくださる王になるお方だと信じていたからです。
4月17日は最後の晩餐の日です。過ぎ越しの祭を祝う日で、イスラエルの人々は特別な食事をします。また、イスラエル民族の新年にあたる記念すべき時でもあります。400年間もエジプトの奴隷として苦しめられていた状態から解放されたことを、いつまでも忘れないように記念するためです。この日、イエスは弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をなさいました。イエスが弟子たちとなさった最後の食事となりました。その晩、イエスはゲッセマネの園で捕えられ、弟子たちはみな散らされてしまいます。
4月18日は受難日です。イエスが苦しみを受け、十字架にかけられる日だからです。捕えられたイエスは朝早くから支配者たちの間をあちこちと引き回されて取り調べを受けたあげく、鞭打ちの刑を受けます。傷だらけになった体で、十字架にかけられるためにゴルゴタの丘に引き立てられて行きました。この日、イエスは十字架の上でいのちを投げ出されました。
数年前に「パッション」という映画が世界中で上映されました。イエス・キリストの肉体的な苦しみを極めて現実的に大画面でありありと表現したことで大変有名になりました。
確かにイエス・キリストの十字架上の苦しみも、それ以前にお受けになったむち打ちのむごさも、想像に余るものでした。皮膚は引き裂かれ、肉が飛び散り、血にまみれた姿は目を覆うほどのものでした。十字架に釘付けになり、息をするたびに血が流れ激痛が走ったことでしょう。
それを見た人々はきっと衝撃を受けたに違いありません。
確かにイエス・キリストがお受けになった肉体的な苦しみは大きなものでした。けれども、私はそれ以上に大きな痛みが神の側にあったと思います。
私たちは時には肉体的に耐えられないほどの大きな痛みや苦しみを経験することがあります。祈りの家族の中にも、今まさにそのただ中あるという方もおられます。また、体の痛みや苦しみ以上に、心の痛みに苦しんでおられる方も少なくありません。
イエスは極度の肉体的苦しみを受け、十字架の上で息を引き取られました。多くの人々がそれを見とどけました。けれども、永遠に神から見捨てられるという恐ろしい經驗は誰にも想像することすら出来ません。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27章46節)
罪は、平安と喜びの源である神から私たちを永遠に引き離すものです。私たちをこの上なく愛してくださる神から離れては、何一つ良いものは残りません。神はそのような恐ろしい滅びの状態から私たちを救うためにご自分がその苦しみを引き受けてくださったのです。
どんな罪も赦せない完全な聖さを持つ神と、罪のために神に近づくことさえ出来ない人間との隔たりが、こうして取り除かれたのです。イエスは「完了した。」と言われた。(ヨハネ19章30節)
イエスの体はその日のうちに墓に葬られました。安息日になると誰も労働することが出来なくなるからです。当時の墓は岩をくり抜いて作った小さな部屋でした。その中に遺体を横たえるのが埋葬の仕方でした。イエスの体は墓に納められ、その入口は大きな重い石でふさがれました。イエスを王として待ち望んでいた人々の望みはこれで完全に消え失せたかのように見えました。
4月20日はイースターです。弟子たちは安息日が明けるとすぐイエスの墓を見に行きました。大きな石は取り除かれ墓には何もありませんでした。イエスは復活なさったからです。罪の贖いを完成してくださったイエス・キリストは私たちの最大の敵である死を打ち破って復活なさいました。
受難週の一週間は天地創造の一週間からすでに始まっていたと言えます。神が人間を創造なさり、自由意志をお与えになった時から、人間は神に背き反逆するようになり、その結果として、痛みと苦しみが始まったのです。神は人類への愛ゆえにすべての痛みと苦しみをご自分のものとして負われました。そして、絶えず、神に立ち返るよう呼びかけ続けてこられました。それは、旧約聖書のここかしこに預言のことばとして記録されています。そこには神の限りない愛が感じられます。
神の子イエスが罪の罰を引き受けてくださったということは、神ご自身が私たちの罪を負って、ご自分をご自分で罰したことになります。それ以外に私たちの救われる道はありませんでした。
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5章8節)
私たちは罪から解放されました。永遠に神の愛から引き離されることはもうありません。ここに、自分では自分の罪を取り除くことのできない私たちが救われる望みがあるのです。
全知全能で完全であられる神が、愛のゆえに私たちの罪をご自分のものとして負って、苦しんでくださったのです。神の子が十字架の苦しみを通らなければ、私たちの救いはありませんでした。けれども、罪の全くないイエス・キリストが罪の報いとして罰を受ける必要はありません。全ては私たちが負うべきものでした。それをなさったのは、見返りを求めない神の愛(アガぺの愛)です。
どんなことでもお出来になる全能の神には何一つ欠けたところはありません。けれども、神は私たちへの愛のしるしとして「神の義」を犠牲にされたのです。完璧な聖さを持つ神が「罪を赦す」という矛盾の傷をあえてお受けになり、私たちのために傷を負われたのです。あなたや私を罪から解放し、贖いを完了するためです。ですから、どんな苦しみも、いつまでも続くことはありません。どんな困難も私たちを滅ぼすことはありません。どんな悲しみも、癒されないことはありません。罪の報酬としての死はもはや無意味となりました。イエスは死を打ち破って復活なさいました。
神の愛が私たちの罪とその結果である苦しみと死とを完全に征服したのです。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井 剛