祈りの家族への手紙:2014-08


 うっかり、もの忘れをしたり、いつもは出来ていたことがたまたま出来なかったりすることがよくあります。そんな時、私たちは「いよいよ、介護ロボットが必要になりますね。」と冗談を言い合います。自分では出来ないことや忘れやすいことを機械に代わりにやってもらおうというのです。

 もちろん、介護ロボットはまだ今は試験段階で、誰にでもすぐ使えるというわけではありません。けれども、その機能や安全性が保証されて普及するようになれば、介護が必要な人には大いに役立つことでしょう。必要な時に必要なものを持って来てくれたり、食事を運んでくれたり、起き上がる時や歩く時などの動作の補助をしてくれます。「今日の天気はどうですか。」という簡単な質問にも答えてくれることでしょう。これからの高齢化時代には介護を必要とする人にも介護をする側にも大いに期待されています。

 そうなるといいと思う一方で、人はそれだけで本当に安心して、満足した生活が出来るのだろうかという疑問も感じます。年配者だけでなく、若者も、子どもも、誰もが第一に求めているのは、何でも自分の代わりにやってくれる便利な機械ではなく、自分の気持ちをわかってくれる人です。人格的な交流を持てる相手です。人は単なる物ではなく神の形に似せて造られたのだからです。

 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。(創世記1章27節)

 今はどこへ行っても、若者たちだけでなく大人たちや子どもたちまでもが、スマートフォンや携帯電話に夢中になっています。誰かとつながっていたいという願いからでしょうか、それを手放せなくなっています。それで世界中にたくさんの友だちができるでしょうが、本当に親身になってくれる友だちが得られるのでしょうか。むしろ、問題や心配事や重荷を背負い込むことの方が多いように感じます。

 真実な人格的交わりは、人格と自由意志を与えられている同じ人間どうしが真実に向き合うことによってのみ得られるものです。人格は、人格の源である神が与えてくださった特別なものです。互いに人を思いやり、人の気持ちをわかり合うことはどんなに優れたコンピューターもまねの出来ない、人間だけに与えられた貴重な性質です。私たちは与えられた人格をもっと活用して、人と人とを結び、人と神とをつなぐために役立てることが出来るのです。人のケアーを機械任せにしたり、機械に頼り過ぎて与えられた尊い能力を退化させ、失ってしまうことのないようにしなければなりません。私たちはいつでも周りにいる人々のためにたくさんの良いことが出来ます。人を思いやることのできる素晴らしい能力を自信を持って活用しようではありませんか。それを私たちにお与えになった神は私たちがその能力を十分に活用するのをどんなに期待をしておられることでしょう。

 イエスは言われました。

 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。(ルカの福音書6章31節)

 人に役立ちたい、人のためになりたいと思う気持ちは神が与えてくださった性質の1つです。

 ヒットラーがユダヤ人を虐殺していた時、リトアニア領事だった杉原千畝は本国の許可なしに自分に与えられた権限で、何千人ものユダヤ人に手書きのビザを発行して虐殺を免れさせたことが知られています。自分が本国から厳しい咎めを受けることを覚悟で、命の危険にさらされていた人々を救うために、手の力が続く限りビザを書き続けました。彼はギリシャ正教会のクリスチャンだったと伝えられています。そういう愛を持った人格を、神は全ての人に与えてくださいました。
 ドイツ人の実業家オスカー・シンドラーはアウシュビッツの収容所にいたユダヤ人が終戦まじかになって大量に殺されることを知って、大勢のユダヤ人を自分の会社の労働者として提供してもらい、技術者として使うことを口実にして、彼らの命を助けました。そのために紹介料の名目などで莫大な金額を親衛隊に支払い自分の全財産を注いでしまいました。戦後は事業資金に苦労し、倒産を繰り返すことになりましたが、彼のおかげで大勢のユダヤ人たちが死を免れたのです。彼の業績を記念する場所には必ず「一人の人間を救う者は世界を救う」ということばが書かれています。

 イエス・キリストはご自分のいのちを投げ出して死んでくださることによって私たちを永遠の滅びから救ってくださいました。私たちはイエス・キリストの手本の中から本当の愛を学んでいます。イエスは罪びとを尋ね出して救い、病人を癒し、虐げられて苦しんでいる人々を助け出して解放してくださいます。それはもともと神ご自身が持っておられる人格の本質であり、私たちもそれを受け継いでいます。ですから、隣人への愛を実践したとき喜びを感じることが出来るのです。私はその喜びを自分も含めてもっともっと多くの人に感じていただきたいと願っています。

 誰もが杉原千畝やオスカー・シンドラーのような大きなことはできないかもしれませんが、孤独な隣人に優しいことばをかけたり、若者に励ましの声をかけたり、暑い日に冷たい水一杯を提供することなら出来ます。それが一人の人を力づけるなら、それによって世界を変えることも可能です。それは決して小さな行ないではありません。イエスは言われました。

 「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、  わたしにしたのです。」(マタイの福音書25章40節)

 そば近くにいる大切な人を理解し、心を通わせて、その人を一人の人格として尊重し受け入れるとき、それを実行した自分の人格にも価値を感じることが出来て、喜びがわいてきます。私たちは初めからそのように造られているのです。

 聖書は繰り返して「互いに愛し合いなさい。」と教えています。愛されることも素晴らしい恵みですが、愛を実践することによって、自分自身にも大きな喜びにがやって来るからです。

 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(ヨハネの第一の手紙4章7、8節)

 隣人を愛することは、神が造られた人を自分と同じように大切な存在として敬うことです。全ての人は自分と同じ尊い人格を神から与えられているからです。ですから、隣人を愛する人は、その行ないによって自分が神から生まれた者であることを実感し、大きな喜びに満たされるのです。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード祈りの家族 

桜井 剛