祝福のメッセージ
No.201408
クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡
8.なぜ、母親を助けてと祈るお前たちの祈りに神は答えなかったのか
息子へ、
神は人格を持っており、人が神との人格的な交わりを持つことが出きるように、人格的な存在として造られた、という説明はとても説得力があって良く分かった。確かに我々が持っている人間らしさ、正義感や道徳感、人とは何者で永遠の未来はどうなっていくのか、といったことを考える性質が人間だけに備わっていることはよく分かる。それが神の性質から来たものだというお前の説明も一応は納出来る。けれども、正直に言うと、神が我々ごとき小さな存在に関心を持っているとは思えない。そんな証拠がどこにある。考えてみなさい。ヒットラーが何百万人ものユダヤ人を殺害していた時、どんなに大勢の人が神に祈っていたか。第一、あんな人物が生まれてこないようにだって出来たはずだ。生まれても、病気や事故で亡くなる人は大勢いたのだから、彼がそうなれば、あんなに多くの人が苦しめられ、死んでいかなくてもよかったはずだ。
お前の言っているように、もし神が人格を持っており私たちとの交わりを求めておられるのだとしたら、なぜ、我々の祈りを聞いてくれないのか。モーセが祈った時、紅海の水が分かれて何百万人ものイスラエル民族がエジプトから救い出されたと聖書に書いてある。もし、神が本当に我々に関心があるのなら、なぜ、聞かれない祈りの方が多いのだ。お前たちの母親が病気だった時、みんなで祈っただろう。私のような罪深い大人の祈りは聞かれないとしても、まだ小さかったあどけないお前たちの祈りなら、聞いてくれても良かったはずだ。そうすれば、その後の私たちの苦しい人生はもっと楽だったはずではないか。
神は大宇宙を忙しく駆け巡り、取るにたりない我々の短い人生にはそれほど関心を持ってはいないのではないのか。お前はそれをどう説明出来るのだ。
愛をこめて、
父より
8.なぜ、母を助けてほしいという祈りに神は答えなかったのか―について
親愛なるお父さん。
この前の手紙で、正直な気持ちを書いてくださってありがとうございます。私も正直にお父さんの疑問に答えたいと思います。
神と我々の世界とを理解するのはとても複雑で果てしない議論が必要になります。
たとえば、ヒットラーの悪政を終わらせるために、ドリスデンに爆撃が行なわれたことは戦略的な説明をすることはできても、その爆撃で肉親を亡くした人々にはどれほど納得のいく説明が出来るでしょうか。
同じ状況は我々の周りにもたくさんあります。それにどう答えられるでしょう。私も正直な気持ちで伝えるしかありません。実は私自身も母が亡くなった時「どうして」と何度も神に尋ねました。けれども、その答えはありませんでした。正直に言って、私も神を恨みました。神は正直で真実な疑問を退けたりはなさいません。そこには、普通では理解できない深い真理に触れる道が開かれているからです。
私は子どもの頃、たいていの子どもたちと同じように、母親の無条件の愛を求めました。しかし、継母から受けたものはその逆でした。私はお父さんの愛を信じていましたが、お父さんが仕事から帰るまでは安心できませんでした。仕事で忙しかったあなたは、いつも家を離れ、私たちは見捨てられた気持でいました。子どもにはそうした苦しみの感情をどこかへ隠してしまう能力が備わっているらしく、その痛みを本当に感じるようになったのは大人になってからでした。それは20歳を過ぎて、クリスチャンになってからのことでした。私は、なぜという疑問への答えよりもっと大切なものを知りました。それは「癒やし」でした。私の心の奥にある痛みを、今なら外に出しても安全だと感じたからでしょうか。しばしば思い出しては苦しみました。特に祈りの時に現れました。しかし、主は大きな愛によって私を包み、少しずつその痛みを和らげてくださり「母の無条件の愛は得られず、誰からも見捨てられている」という思いが癒されていったのです。イエスは言われました。
わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(へブル13章5節)
無条件の愛を必要としていた時に母親からは得られなかった愛をイエスが与えてくださいました。主は私たちの敵ではなく、私たちの痛みを身をもって知ってくださり癒してくださる方です。こうして、私は無条件の愛をイエス・キリストの中に見出すことが出来たのです。この愛によって私はもう過去の痛みに苦しむことはなくなりました。これは理屈では説明出来ません。神が祈りを聞いてくださらないことがある理由の全てを理解することは出来ませんが、神と私との信頼関係が成立し、神との交わりが続いているのです。それは言葉では説明できない平安です。
イエスは私たちが苦しむときその苦しみを一緒に受けとめて、私たちを癒してくださる方です。神は遠く忙しい方ではなく、私たちのそば近くにおられる方です。
お父さんも覚えておられるでしょう、私がミネソタ大学の一年生だったとき、よく議論しましたね。この世の中はすばらしい美しさと良さに満ちている一方で悪と醜さで溢れている。神がおられるに違いないと思う一方で神がおられるならこんな筈はない。この二つの間で悩んでいました。けれども、苦しみがあることを知ることと苦しみの当事者となることとは全く別のものです。イエスはその当事者となって私たちと一緒にその苦しみを味わい、そこから引き上げてくださるのです。
イエスは環境の不自由さと無力さと命の危険の中でお生まれになり、弱い者、見捨てられ、咎められ、退けられて希望の持てない者たちの味方となって、慰め、力づけ、助けてくださいました。最後には不当な裁きによって処刑されましたが、復活して永遠のいのちの希望を確かなものとしてくださいました。神は私たちの身勝手な祈りよりももっと大きな答えを私たちのために用意してくださっているのです。
私の大きな愛をこめて、
息子のグレッグより