祝福のメッセージ
Part II-Correspondence14
No.201410
クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡
10.福音書にはたくさんの矛盾があるのではないか
息子へ、
返事に時間がかかってしまって申し訳ないが、それも、お前の手紙は難しすぎて理解するのに時間がかかったからだ。
子どもたちは元気でやっているだろうな。お前は今年も、あのウルトラマラソンとやらをやるのか。子どもたちもいろいろな競技に参加しているのだろうね。
私にはどうしても、お前の議論は初めから聖書が事実だと決めてかかっているように思えてならない。その後で、私にその証拠を突きつけているのではないのか。
お前の手紙を何度も読んでたくさんの疑問が湧いてきた。単なる歴史的な出来事を確かな真実のようにつじつまを合わせた教えを大勢の人が信じているのは何故か。
お前は本当にそれが確かだと信じているのか。私が会ったクリスチャンたちは皆議論もしないで、確かだ、確かだと言っている。長年セールス・マンとして働いてきた私には、お前の正直な説明はかえって不信を招くのではないかとさえ思える。
私は聖書学者ではないが、自由主義の聖書学者が書いた本をたくさん読んだ。
彼らは皆、聖書の歴史的な価値を認めていない。毎年会議を開いて、聖書の記事の一つ一つを吟味して、イエスのことばをどう解釈すべきか多数決で決めているそうだ。私たちはイエスが実際に教えた内容を直接聞いたわけではないのに、お前は福音書に書いてあることだけで「彼がこの地球上に現われた神だ」と言っている。
ある学者の本では聖書はいろいろな記録を集めて編集したものだと書いてあった。編集された元の記録は正確で正しいものだったとしても、編集された段階で、意図的な物語になったのではないかという疑問が残る。それは「聖書は神の霊感を受けて書かれた」と言う定義と矛盾しないのか。
そういう訳で、福音書の真実性を受け入れて、私の生涯をかける気にはならない。
シェリーと子どもたちによろしく、愛をこめて、
父より
10.福音書にはたくさんの矛盾があるのではないか―に答えて
親愛なるお父さん。
お便りを感謝します。こちらでは家族そろって皆元気です。娘たちは張り切って競技に参加しています。親の目から見る限り、彼らはとても良くやっています。
最近、私はあまりトレーニング出来ないのですが、今年の100kmレースには参加します。初めてミネソタ州でやるのですから、出ないわけには行きません。
さて、お父さんの質問に一つ一つお答えしますので前の手紙と比較してください。
お父さんは私の信仰と福音書の信頼性についてお尋ねでしたね。
私の信仰は聖書が詳細に至るまで全て正確な記録かどうかに直接関係ありません。
私が信じているイエス・キリストは過去の歴史に記録されたままのイエスではなく、私と共に生きておられ、私たちの関係は日々深まっているからです。
歴史的な事実は大切な信仰の基礎ですが、イエス・キリストとの人格的な関係はもっと大切で生きて働く力です。
人と人との関係でも同じことが言えます。私と妻のジェニーとの関係も初めは姿や性格や心の動きによって評価していましたが、人格的な関係が深まるに従って、信頼や安心感がお互いの間に育ってくるのです。顔や姿はもはや大した問題ではなく、その性格も理解して受け入れることが出来るようになります。
次に、福音書の記録の正確さと順序正しさについてですが、イエスが言われた事が録音されているわけではありません。ほとんどの学者たちは「福音書はイエスが言ったり行なったりしたことを聞いた人の話や記録を集めたものだ」としています。私も同感です。けれども、それは特別なことではなく、決定的な問題でもありません。もともと、福音書は歴史を証明するために書かれたものではないからです。
福音書が書かれた目的は、人々の目を神と救い主に向けさせ、罪から救い、救い主との親しい関係によって永遠のいのちへと導くためのものだからです。福音書を書いた人たちは自分が見聞きして感じた通りのことをそのまま自分の言葉で表現して伝えているのです。ですから、見落していたり、順序が交錯していたりしても(それほど多くあるわけではありませんが)彼らが伝えた内容の価値は少しも変わりません。もともと、私たちは、イエス・キリストの働きの順番を正確に把握しているわけではないからです。イエスが語られたことについても、それを直接聞いた人やそれを伝えられた人によってそれぞれ受け止め方が違います。ですから、福音書はいろいろな角度から記録されて、それを受け止める人にメッセージの受け取り方が委ねられているのです。その記録の正確さを追及するだけでは、大切なメッセージの内容は伝わっては来ません。ですから、イエスが言われたことばの真意を学者たちが多数決で決めることには意味がありません。
福音書に現れている人間的な表現の多様性は、かえってそのメッセージの意味の深さと温かい調和を感じさせます。
お父さんが指摘なさったように、福音書の中には一致しない記事があるのは確かです。けれども、それも現代的な精密さで文章を分析することによってはじめて指摘出来るのであって、伝えられているメッセージに矛盾があるわけではありません。当時の人々がイエスのことばをどのように受け止めていたかという目で見れば、たとえわずかな食い違いがあったとしても問題ではないことが分かります。
福音書が書かれたのは、イエスは変人なのか、噓つきか、それとも、信じた人々が言うように、神の子であり救い主なのか。読んだ人が自分で判断するためです。
ですから、お父さん、私は福音書が信頼できる記録であり私たちが知るべきことを余すことなく伝えてくれているものであると信じています。
惜しみない愛を込めて、お父さんのためにお祈りしています。
グレッグより