Part II-Correspondence16
No.201501
クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡
13.死んだ人間が生き返るなどとどうして信じられるのか ― の答え、その2
親愛なるお父さん。
私たちは万物を創造した神にはどんなことでも出来ると信じています。けれども、ひとつの出来事が私たちの世界で、他の出来事とどう調和しているかを考える必要があります。「神は何でもお出来になる」というだけでは議論になりませんから。
その出来事というのは、今私たちが論じている「イエス・キリストの復活」です。そこで、復活について記録している福音書の正しさ、特に、「作り話ではない」と言える根拠を示す必要が在ります。その根拠を4つあげます。
第一に、福音書は数十年の間の出来事の記録として完結したものですから、出来事を目撃した人々が納得しないような作り話が加わる余地は全くありませんでした。
第二に、福音書が書かれた環境は、その事件に対する反対者や批判者たちに囲まれていました。したがって、事実と異なる記録があった場合はすぐに指摘されて激しく訂正を求められたはずです。けれどもそのようなことは起こりませんでした。
第三に、イエス・キリストにかかわる特別な出来事は福音書が書かれた時に始まったのではなく、それ以前から知られていてパウロの書簡にも残っています。福音書がその事実と異なったことを記録することはその世代の人々に受け入れられません。イエス・キリストにかかわる奇跡や復活などの超自然的な出来事の記録は実際に起こったことの記録であって、民話や神話などのように長い時代をかけて語り伝えられて出来上がったものとは違い、極めて短い間に書かれ、当時の人々はそれを事実として良く知っていたのです。ところが、福音書が神話であるという主張は18世紀から19世紀になってからです。すでに目撃者はおらず、残された資料や記録の分析から、神話であるという間違った結論を出したのです。
第四に、福音書の記録は完結した後には何も加えられたり変更されたりしてはいません。出来事の全てが、まだ大勢生存していた目撃者に認められていた内容のままです。その出来事を目撃していない後の時代の人々が、「信じられない」という理由だけでそれを作り話であると結論付けることは出来ません。
確かに、科学的な考え方が進んでいる現代では、福音書には現代の感覚では納得がいかないと思えることがかかれていますが、それでイエス・キリストの復活は事実ではないと結論付けることは極めて非科学的です。それが記録された当時でも、イエス・キリストの復活はとても信じられないことでした。けれども、目撃者たちの証言の記録であり、多くの反対者たちもそれが事実であることを知っていたのです。それを否定するのなら、それが間違いであるという科学的な根拠を示す責任があります。しかし、そのような根拠はいまだに示されていません。非科学的であると言う前に、人類にはまだ十分に吟味が尽くされていないことがたくさんあり、私たちの知識も多くの未熟さを持っていることを認めなければなりません。
私にとってはイエス・キリストの復活は、どんな歴史的記録よりも確かなものです。復活は通常と違う出来事ですが、事実と言える根拠がたくさんあります。それをいくつか挙げてみます。①復活の出来事は大勢の人が別々に証言しています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、パウロ。
彼らは、ペテロやヤコブなどの目撃者からの証言も引用しています。
このように、独立した複数の証人が一つの同じことを証言することはそれが真実であることを強力に裏付けています。しかも、復活の事実を伝え方には目撃者の個性が表われていて、それぞれの味方が違っているので、証言が極めて客観的であることが分かります。復活したイエスは多くの人々に会い、一緒に食事さえしました。
②イエスが葬られたアリマタヤのヨセフが所有する墓は多くの人に知られていたので、弟子たちも、また、イエスの反対者たちも墓が空であったことを確認しました。
③キリスト教会の爆発的な成長はイエスが十字架で死んで復活した直後のエルサレムで始まりました。その教えの中心は「イエスは神が遣わされた救い主である」ことでした。イエスが行なわれた奇跡や復活が事実だったので多くの人々が信じたのです。
④以前にもお話ししましたが、もしそれが作り話だったら、当時生きていて誰もが知っていた有名人の名前をあげたりはしません。また、当時あまり重んじられていなかった婦人たちの証言をありのまま記録していますが、それはかえってその証言を不利にすることでした。意図的な作り話ならそのような不利な証言は加えたりしません。しかも、これらの証言には神学的な統一性がなく、結論を意識的に誘導しようとせず、ただ事実だけを伝えています。
⑤パウロの回心は彼が実際に復活のイエスに出会ったのでなければ説明できません。彼はパリサイ派のユダヤ教徒で、熱烈にクリスチャンを迫害していました。ステパノの殉教にも加担していました。彼が当然福音宣教に命をかけるクリスチャンに変わったのは、彼が実際に復活のイエスに出会ったからにほかなりません。
⑥おもな目撃者となったイエスの弟子たちにとって、イエスの復活が事実でなかったら、復活を主張しても何の益にもならないどころか、命の危険にさらされるだけでした。事実であったにもかかわらず、彼らは迫害を恐れて隠れていたほどです。ただ、聖霊の力に押し出されてそれを証言することが出来るようになったのです。復活が事実でなかったら、弱虫だった弟子たちがその証言に命をかけるはずがありません。
最後に、お父さんが引用しておられた、『誰かがイエスの死体を盗んだのではないのか。』 あるいは、『弟子たちはイエスの幻を見ていたのではないのか。』という説への反論をします。
いったい誰にそのような無謀なことが出来たでしょうか。当時、イエスの体を盗んでも誰の益にもなりません。イエスが去った後の弟子たちには不可能でした。屈強なローマ兵が命をかけて守っている墓には何人も近づけません。ただ、イエスを復活させた全能の神にはその力があり、その目的を持っておられたのです。復活したイエスを大勢の人々が目撃し、その声を聞き、一緒に食事をしました。500人もの人が一緒に同じ幻を見ることはあり得ません。
キリストの復活を否定することには何一つ根拠がなく、人生に何の益ももたらしません。けれども、復活を裏付ける証拠は多く、それを信じることは人生にたくさんの益をもたらします。
確かに、お父さんのおっしゃる通り、復活の出来事は通常では起こらないことです。常識では受け入れられないことです。それだからこそ、信じることを要求されている特別な出来事です。復活を信じることが当たり前でないことにこそ、信じることの意味が有り、その結果が大きいことを知っていただきたいのです。イエス・キリストの復活を信じることは、神が私たちのために用意された、普通では信じられないようなたくさんの素晴らし計画の奥義を理解するための第一歩となるのです。ここから、自己中心の知恵と力に束縛されている本来の私たちには理解出来ないことが見えてくるのです。私たちの人生が大きく開かれ、私たちの永遠への歩みが始まるからです。愛するお父さんにこそこの奥義を知っていただきたいのです。
たくさんの愛をこめて、
グレッグより