祈りの家族への手紙:2015-02


 親愛なる祈りの家族の皆様。

 恐ろしい事件や暗いニュースに満ちているこの頃、私たちは未来に希望が持てるのでしょうか。

 明日に期待をし、希望が持てるとしたら、それはとても素晴らしいことです。今がどんな状態であっても、明日には何かもっと良いことが期待できると感じることが出来れば安心して毎日を過ごすことが出来るからです。

 けれども、世界中にはテロや内戦によって明日の命さえどうなるのか分からない不安に脅えながら毎日を過ごしている人々が大勢います。とても心が痛みます。彼らは自分たちには明日がないのではないかと感じているかも知れません。人が未来に希望を持つことが出来るのはとても大切です。将来に何か良いことがあることは、人生全体をわくわくするような素晴らしいものにしてくれます。

 長年にわたって、私たちはレックス・ハンバードによる「明日への希望」というテレビ番組を放映して、イエス・キリストを心に受け入れて神に立ち帰るよう呼びかけていました。ご覧になっていた方もおられると思います。

 そのメッセージによって、どんな状況におかれていても、全ての人がイエス・キリストによって心配や恐れを取り除いていただき、明日という日に希望を持っていただくためでした。

 かつて、人々は貧しさから解放されるために豊かさを求めて一生懸命働きました。ある程度の豊かさが得られると、今度はもっと多くの喜びを求めて、際限なくいろいろなことを試しますが、本当の喜びは物質的な豊かさだけでは得られません。むしろ、家庭崩壊や孤立化を招きかねません。

 私は2020年に開通すると言われているリニア新幹線に、ぜひ乗ってみたいと思っています。時速500キロで地上を走るのですから、きっと素晴らしい景色が見られることでしょう。今からわくわくします。それはまだ5年も先の話です。しかし、私はそのほかのどんなことに対しても、一日一日を神が与えてくださる明日という日への希望につなげて生き続けたいと思っています。

 私たち人間は、万物の創造者ではありません。創造主から預かったものを管理しているだけです。人は永遠的な良いものを自分で造りだすことは出来ません。全ては神から与えられるのです。

 ソロモン王はあらゆる富も権力も持っており知恵の人と言われていました。彼がこう言いました。

 私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。

 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(伝道者の書2章10、11節)

 ソロモンは、私たちの行ないが何もかも空しいと言っているのではありません。自分では自分を本当に満足させるものを生み出せないと言っているのです。それは神がなさることだからです。

 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。(12章1節)

 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(12章13節)

 「人生の一日も早いうちに、創造主である神を知って、その方をおそれ、その命令である御心に従って生きることを知れ」と言っているのです。そこに私たちの希望があり素晴らしい未来があるからです。それ以外のものはみな、今というしばらくの間だけ私たちに喜びや楽しみを与えてくれるにすぎないのです。そこに永遠的なものや本当の平安を期待することは出来ません。

 一方、イエスはこう言われました。

 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」   (ヨハネの福音書15章7節)

 なんと素晴らしい約束でしょう。私たちが祈り求めることは何でも与えられるというのです。

 私は毎日たくさんの祈りのリクエストを受け取ります。その一つ一つを手に取って祈りますが、それらの祈りが全て聞かれたらどんなにいいでしょう。けれども全ての人が「祈りが聞かれました。」というお便りをくださるわけではありません。また同じ祈りのリクエストを何度も受け取ることもしばしばあります。明らかにまだ祈りが答えられていないからです。そこで、私はまた祈ります。

 それでは、イエスが言われた、「あなたがたのためにそれがかなえられます。」という約束は間違いなのでしょうか。そんなことはありません。

 イエスのことばに注意してください。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、」とあります。「とどまる」とは、私たちがイエスと一緒にいて同じ気持ちになることです。そして、いつもイエスの言われたことばが心にとどまっていることです。

 「このような時にはイエスならどうなさっただろうか」、「イエスは何と言われるのだろうか」と考えて、それと同じように私たちの気持ちを近づけるのです。すると、あなたの心の願いが変わってきます。そして、求めることが何でもかなえられるようになるのです。神は初めから、私たちにとって良いものを与え、良いことをしてくださっているのです。ですから、今も、これからも、私たちのために良いこと、良いものを与え続けてくださいます。私たちがその良いものを求め、良いことを願い続けるなら、私たちの祈りはいつでも神の御心にかなった祈りとなり、神が私たちに与えようとしておられる良いことを求めるようになるからです。そのような祈りが叶えられないはずがありません。ですからヨハネはこのように言っています。

 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(ヨハネの第一の手紙5章15節)

 これこそ私たちが明日に、未来に、希望を持つことが出来る確かな理由なのです。

 神はあなたの未来にも良いものを用意しておられます。あなたの明日に希望を持ってください。今、何があろうとも、あなたの明日はあなたを愛してくださっている神の手に握られていて、良いものに満ちているからです。あなたはそれらの良いものを願い、それを受け取るだけでいいのです。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード祈りの家族

桜井 剛